6-3 どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

現在日本における宗教しゅうきょう法人ほうじんの総数は、十八万三千四七一あり、法人格ほうじんかくを持たない宗教団体を含ふくめると二十二万七千余もあるといわれています。(平成九年宗教年鑑調査による)

これほど多くの宗教を、実際じっさいに自分の目で善悪ぜんあくを確たしかめたいといってもそれは不可能ふかのうなことです。

またそのなかで仏法の教えは特に難信なんしん難解なんげであり、体験たいけんの世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪せいじゃを理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯いっしょうがいを費ついやしてもできることではありません。結局けっきょくはどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。

たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰だれが作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索せんさくし続けて、結局向う岸に行いきつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得なっとくしなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。

時には批判ひはんし、詮索せんさくすることも必要ですが、元来がんらい仏教に限かぎらず、すべて宗教は信ずることから始まります。

法華経には、

「信しんを以もって入いることを得えたり」(譬喩品第三・開結175㌻)

とあり、日蓮大聖人は、

「仏法の根本は信を以て源みなもととす」(日女御前御返事・御書1388㌻)

と教示されています。

また大聖人は、

「有解無うげむ信しんとて法門をば解さとりて信心なき者は更さらに成仏じょうぶつすべからず。有信うしん無解むげとて解げはなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・御書1460㌻)

と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、

「法華本門の観心かんじんの意いを以もって一代いちだい聖教しょうぎょうを按あんずるに菴あん羅果らかを取って掌中しょうちゅうに捧ささぐるが如ごとし」(十法界事・御書176㌻)

と仰おおせられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深せんじんは、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。

正しい御本尊を信受しんじゅし修行しゅぎょうすることによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮はっきされ、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載