4-1 霊をどのように考えるか

霊というと、すぐ幽霊ゆうれいとか悪霊あくりょうなどを想像し、霊媒れいばい心霊しんれいじゅつなどが頭に浮かんできますが、はたして霊は存在するのか、また死後の生命はいったいどうなるのか、私たちにはきょうのあるところです。

人が死んだら肉体はほろびるが、目に見えない霊魂れいこんが肉体をけ出してどこかに存在するといった考え方から、幽霊やたたりなどがきょうの対象となり、一方では霊が神聖しんせいされ、信仰の対象とされてきました。

しかし生命というはかり知れない不可思議ふかしぎな現象は、仏法で説くところの三世さんぜにわたる永遠の生命観によってのみ、真に生命の実体じったいを説き明かすことができるのであり、これをたんに唯心論ゆいしんろん唯物論ゆいぶつろんけたり、個体的存在としての霊魂説にもとづいた考えでは、とうていその本質を正しくとらえることはできません。

仏教では三身さんじん常住じょうじゅうということを説きます。三身とは法報応ほっぽうおうの三身のことで、これを仏についていえば、法身ほっしんとは法界ほうかいの真理の法そのものであり、報身ほうしんとは因行いんぎょうを修して仏果ぶっかたところの智慧であり、応身おうじんとは衆生の機に応じて出現する身をいいます。たとえ仏が入滅しても、真理の法や仏の智慧は当然のこと、衆生しゅじょうを救うという応身としての力用りきゆう(はたらき)は常に存在しているのです。これと同様どうように私たちの生命も境遇きょうぐうの差はあっても、三身をそなえており永遠に存在するものなのです。

すなわち私たちの死後の生命は大宇宙だいうちゅうの生命とともに存在し、えんによってこの世に生じます。そしてその肉体は、過去世かこせ業因ごういんをもとに、宇宙の物質をもって形成けいせいされています。一生が終り、死に至ったとき、その肉体は分解ぶんかいされ、またもとの宇宙の物質へともどります。生命もまた大宇宙の生命と渾然一体こんぜんいったいとなり、永遠に生死を繰り返すのです。

死後の生命についていえば、大宇宙の生命に冥伏みょうぶくした死後の生命は、過去世の業因によって十界じっかいのそれぞれのごうを感じ、苦楽をていますが、とくにその苦しみや強い怨念おんねん、または過去の執着しゅうちゃくなどは生きている人間に感応かんのうし、人によってまれには言葉が聞こえたり、物が見えるといった種々の作用を感ずるのです。普通はこれを霊魂のはたらきと考えているようですが、どこまでも感応によるものなのです。

この感応は、死後の生命だけでなく、生きている人からも故人こじんに影響を与えます。そこで各寺院における塔婆とうば供養くようなどの追善ついぜん供養が行われるわけです。遺族いぞくの強い信心と本尊ほんぞん功力くりきによって、亡くなった人の生命を成仏じょうぶつさせることが追善供養の真の意義であり、それは感応かんのうみょうの原理によるのです。

以上説明してきたことからも、通常つうじょういわれるような特別な霊魂や個体としての幽霊などは実際には存在しません。生といい死といっても一つの生命における変化にすぎないのです。

なお、正宗寺院の追善供養で、「だれそれの霊」として回向えこうを行いますが、この場合の霊も死者の霊魂れいこんをいうのではなく、死後の生命全体を指しているのです。その他、日蓮大聖人の御書中にも幽霊ゆうれいとか悪霊あくりょうという言葉が使われていますが、これらは死者の生命を指しての言葉であり、また大聖人の心、生命を指して魂といわれている箇所かしょもあります。

今日こんにち、私たちにとって、なによりも大切なことは、正法を信仰し善因ぜんいんを積みかさねていくことです。これこそ永遠の幸福をきずく最高の方法なのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載