2-4 どんな宗教にも、それなりの利益があるのではないか

すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分いちぶんの利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相ようそう利益りやくのように感じられるのでしょう。しかし、人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在せんざいしており、それがえんにふれて様々さまざまな作用をするわけですから、周囲の状態(えん)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心をしずめてなにかをおがみ祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転こうてんすることも不思議なことではありません。

また、祈祷師きとうしうらななどのように利根りこん通力つうりきという一種の超能力ちょうのうりょくをもって、他人の願いごとを祈ったり、将来をうらない、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的せんざいてき可能性の一分があらわれたものであり、あっても不思議ではありません。

しかし日蓮大聖人は、

利根りこん通力つうりきとにはよるべからず。」(唱法華題目抄・御書233㌻)

と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界きょうがいに至ることであり、このような超能力によってはいけないといましめています。

ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先めさききゅうしのぎによってられるものではなく、ちゅう法界ほうかいさとった仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天ぶってん加護かごを受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳をそなえ、清浄せいじょうにして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。

たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至るよこしまな道があるとします。正しい道は向上こうじょうするものですから、けわしい坂道や困難なかべにぶつかることもありましょう。反対に邪な道は下降かこうする道ですから、快適かいてきな下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。しかし一輪の花や下り坂にせられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師さぎしがはじめに正直者しょうじきものよそおい、おいしいえさを相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依きえすることをさまたげようとするの働きなのです。

一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠しょうこがそなわっている正しい宗教によって、正しい人生をあゆむことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載