2-14 歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが
奈良や京都の歴史的に名高い神社や寺々は、今もなお多くの観光客が訪れています。
たしかに年月を経た建物や、静かな庭園のたたずまいには、いかにも心をなごませる落ち着いたふんい気があります。
しかし、よくよく考えてみなければならないことは、宗教の本来の役割は物見遊山や観光のためではなく、民衆を法によって救うことにあるということです。
歴史的に有名であったり、大ぜいの観光客が訪れるということと、実際にその寺院が人々の救済に役立っているか、また参詣者に功徳を与えているかということとは別の問題なのです。
昔の人の川柳に「大仏は見る物にして尊ばず」という一句がありますように、奈良の大仏を見に行く人や、見上げてその大きさに感心する人はあっても、心から信じて礼拝合掌する人はいないものです。
信仰心をもって行くというよりは、観光のために訪れるというのが本心でしょう。
古都の神社や寺々は、もはや宗教本来の目的を失い、拝観料などの観光による財源で建物を維持することに窮々としているというのが現状です。
そのほか、正月や縁日に大ぜいの参詣者でにぎわう有名な寺社も、宗旨の根本である本尊と教義を調べてみると、まったく根拠のない本尊であったり、仮りの教えであるなど、今日の人々の救済になんら役立つものではなく、むしろ正法流布のさまたげとなっているのです。
ところが宗教の正邪を判断できない人々は、開運・交通安全・商売繁盛・厄除けなどの宣伝文句にさそわれ、これら有害無益の寺社におしかけ、自ら悪道の原因を積み重ねているのです。
日蓮大聖人は、
「汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」(聖愚問答抄・御書402㌻)
と説かれているように、正しい本尊と、勝れた教法によって、民衆救済の実をあげていくところに宗教の本質があるのであって、ただ歴史が古い、名が通っている、多くの参詣者でにぎわっているということをもって、その寺社を尊んだり勝れていると考えてはならないのです。
歴史的な建物や、庭園・遺跡などには、それなりの価値はあるのでしょうが、人々を救済するという宗教本来の目的から見れば、これら有名な寺社にはなんらの価値もないばかりか、むしろ人生の苦悩の根源となる悪法と、社会をむしばむ害毒のみがうずまいていることを知るべきです。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載