1-6 信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか
仏法は、人間が本質的ほんしつてきに直ちょく面めんしなければならない苦悩くのうを解決するために説き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入はいることは当然とうぜんのことです。
信仰を求める動機どうきは、主として直接的に日常生活の支し障しょうとなる病気や経済苦が挙あげられますが、そのほかに最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。
人間は誰だれでも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と再ふたたび失敗しない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。
事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、さまざまな問題が起きて身動きができなくなって、はじめて我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台どだいとして正しい信仰が必要であったことに気付きづいたという人も多いのです。
また、日蓮大聖人は、
「病やまいによりて道心どうしんはおこり候か」
(妙心尼御前御返事・御書900㌻)
と仰おおせられ、病びょう苦くが信仰心を起す原因になるとも説かれています。
しかし、入信の動機がいずれにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、正しょう境きょう(正しい本尊)に縁えんすることに重大な意義があるのです。
妙楽大師は、
「縦使たとい、発心ほっしん真実ならざる者も正しょう境きょうに縁すれば功徳くどくなお多し」
(聖典833㌻)
と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説いています。
入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難ひなんすることは、仏法の功徳力くどくりきを知らない者の愚おろかな行為こういといわざるをえません。
大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服こくふくし、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、いかなる境きょう遇ぐうの人も必ず幸せになっていく日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきです。
大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念きねんせしめ給へ。何事か成じょう就じゅせざるべき」
(経王殿御返事・御書685㌻)
と仰せられています。
さらに法華経には、
「無む上じょうの宝聚ほうじゅを求めざるに自おのずから得えたり」
(信解品第四・開結199㌻)
と説かれています。これは無上の宝である成仏の境きょう界がいは自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教でんぎょう大師だいしは、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると讃たたえています。
この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら恥はずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入り口ともなるのです。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載