3-9 宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか

「福祉」という言葉は、〝幸福〟の意味ですから、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮こんきゅうしている人に物をめぐみ、えた人にしょくを与え、不自由な人の手助けとなり、なぐさめるという、一般的な意味であろうと思います。

たしかに極端きょくたんな個人主義と利己りこ主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕ほうしすることはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着ていちゃくさせてゆかねばなりません。政治や行政ぎょうせいの面からも福祉政策せいさくを協力に推進すいしんしてほしいと願わずにはいられません。

しかし宗教の存在価値かちや目的が福祉活動への奉仕ほうしだけであると考えるのは、おおいなる誤解ごかいです。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によってしょうろうびょう四苦しくを解決し、成仏という確固かっこ不動ふどう安穏あんのんな境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置そちだからです。

またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人をなぐさめるだけでこと足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害はくがいの中で身命をして法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝らいはいし、修行を積み、教義の研鑽けんさんをすることもすべて不要となってしまうではありませんか。

真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源こんげんに光をあて、活力にみちた仏の働きをきあがらせて、力強い人生を確立かくりつすることにその目的があるのです。

他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態けいたいはさまざまです。仏法では人間を深く観達かんたつしたうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。

「孝養に三種あり。衣食えじきほどこすを下品げぼんとし、父母の意にたがわざるを中品ちゅうぼんとし、功徳くどく回向えこうするを上品じょうぼんとす」(十王讃嘆抄・平成校定3―2781㌻)

ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果報かほうを他にめぐらし向かわせること)することがもっともとうといことであり上品であると明かしています。

物を与え、慰労いろうするところの福祉活動が正しく実践じっせんされ、持続し、実効じっこうを生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧ちえと活力を与える真実の仏法が必要なのです。

いいえれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべてのいとなみの基盤きばんとなり、根底にあって善導ぜんどうし、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載