2-7<事の戒壇は天母山に立つべし>

顕正会のいう天母山戒壇説は、京都要法寺の方から入ってきた義であって、大石寺にはもともとなかったものである。

これについて第66世日達上人は、

後世、天母山という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原もなかった。それが、日有上人の晩年の頃に、左京日教という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕われたあげく、天母原ということを言った。天母原というのは小さなところではなく、大きい広いという意味をとっておる。富士の麓の広大なる原を天母原という理想の名前に依って、自分等の考えておった理想を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に初めて天母原という名前が出てくるのである。
天母山というのは、後には天母山も天母原も混同しておるようでございますけれども、天母山に戒壇を建てようというのは、要法寺系の日辰という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山本門寺の方へ主におって、そこから天母山へ行ってそこへ戒壇を建てようとした。即ち、戒壇堂でもその時は仏像であり、釈尊の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門を建てよう。仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像となる。釈迦仏となる。そういう様な理想であった。ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。

そういう考えが残って、本山においても後に天母原という名前が大いに出てきたのであって、本当の古い時にはそういう名前はない。富士山に本門寺を建立ということは、一期弘法抄を拝してもわかることであるが、決して天母山という名前はない。ことにまた、天母山ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。この前富士宮の調査においても、古来においてはなかったということを言われておる。いつから天母山ということになったかということも分からない。おそらくそういう僧侶たちが来て、天母山と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。

いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源である。という深い信念を以て信心して項きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかということの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とは言えないのであります。

と御指南されている(戒壇論63)。所詮、顕正会の天母山戒壇説は、本門戒壇の大御本尊から離れた不毛の論にすぎない。

出典:諸宗破折ガイド169-177/宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編