1-3<国立戒壇に固執>
この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、これに付随して「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつあった。そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、昭和45年5月、今後は国立戒壇という名称は使用しないことを宗内外に公表した。
宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇に固執する考え方を改めさせようとした。
また、池田の「正本堂をもって御遺命達成・広布達成」とする考え方に対しても、それを改めるべく、日達上人は昭和47年4月に正本堂の意義について『訓諭(くんゆ)』を発表された。その中で、正本堂は現時における事の戒壇とされ、「現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊は公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」と述べられ、本門戒壇に関する法義を示されて宗内の和合統一をはかられた。
しかし妙信講は日達上人の意に背き、宗門や創価学会を非難・攻撃し続け、「流血の惨も辞さず」(昭和47年6月30日付)との脅迫文を送りつけるに至った。そこで日達上人は、自ら妙縁寺に赴かれて浅井父子を説得され、ようやく無事に、同年10月の正本堂の落慶法要を奉修されたのであった。
そののち、この問題は一時収まりかけたが、妙信講は執拗に国立戒壇を主張し続け、ついには文書の街頭配布やデモ行進を行うなど、事態はますますエスカレートしていった。
出典:諸宗破折ガイド169-177/宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編