6-9 日蓮正宗がそんなによい宗旨なら、なぜ社会の人から広く受け入れられないのか

質問の内容はいろいろな意味に解釈かいしゃくできます。具体的ぐたいてきにいえば、

「そんなによい宗旨なら」

一、もっと昔から広まっていたはずだ

二、もっとおおぜいの人が信仰しんこうするはずだ

三、もっと学識者がくしきしゃ著名人ちょめいじんに受け入れられるはずだ

四、もっと短期間に広まるはずだ

などの意味をふくんでいるように思われます。

いま、これらの疑問に対して、まとめて説明しましょう。

釈尊は法華経に、

法華ほけきょうもっと難信なんしん難解なんげなり」(法師品第十・開結325㌻)

と説き、法華経はずい自意じいといって衆生しゅじょう機根きこんにかかわりなく、仏がさとった法をそのまま説かれたもので、きょう深遠しんえんなために難信難解であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難だいなん障害しょうがいこるために難信難解なのであるとおおせられています。

とくに末法まっぽうは衆生の機根も邪悪じゃあくな時代であり、出現しゅつげんされる仏も弘通ぐづうされる教法きょうぼうもより鮮明せんめいじゃ顕正けんしょうむねとするものであるから、迫害はくがい誹謗ひぼう身命しんみょうおよぶものとなり、きょう困難こんなんをきわめるであろうと、釈尊は予言よげんされました。

釈尊の予言どおり、末法の本仏ほんぶつ日蓮大聖人の生涯しょうがいは、立正安国と衆生しゅじょう済度さいどだい慈悲じひつらぬかれ、同時にまた邪悪な大難だいなんしょうとのたたかいの連続れんぞくでもありました。

日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪せいじゃ峻別しゅんべつする折伏しゃくぶくしゅうであり、個々ここの人間に活力かつりょくあたえ、現実生活の向上こうじょうを説く宗教であるため、封建ほうけん主義しゅぎの時代には、民衆みんしゅう抑圧よくあつして体制たいせい維持いじはか為政者いせいしゃから弾圧だんあつされたのです。

したがって日蓮正宗の本格的ほんかくてききょうは、信教の自由・布教の自由が認められたのちといっても過言かごんではありません。

折伏弘教が進むにつれて、その反動はんどうとしての中傷ちゅうしょう妨害ぼうがいもさまざまにこりました。なかには、せっかく日蓮正宗の話を聞いても、「日蓮正宗は新興しんこう宗教だ」「葬式そうしき香典こうでんを全部ってしまう」「病人と貧乏人びんぼうにんの集まりだ」などの悪質あくしつなデマにまどわされたり、世間せけんの目を気にして入信できなかった人も多くいたのです。

現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗ていこうを感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕あさゆう勤行ごんぎょうと聞いてしりごみする人など、入信できない人もおおぜいいるようです。

そのようななかで、人生を真摯しんしに考え、先祖せんぞからの宗教をあらためて日蓮正宗に帰依きえすることは実に勇気ゆうきのいることであり、至難しなんわざなのです。それにもかかわらず、日蓮正宗の信徒は、現在、日本国内のみならず全世界に広く活躍かつやくしています。

さまざまな障害しょうがいのなかで、このように発展はってんしたのは、正宗しょうしゅう僧俗そうぞくの折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統せいとうであり、御本尊に偉大いだい功徳力くどくりき厳然げんぜんとましますからにほかなりません。

世間せけんには学識者や有力者ゆうりょくしゃ著名人ちょめいじんといわれる人がおりますが、このなかには日蓮正宗の信仰をしている人もいれば、この宗教にはまったく無知むちな人、ひょう保身ほしんを気にして信仰できない人などさまざまです。ですから学識者や著名人が信仰するしないによって宗教の必要性や正邪を判断はんだんすることはあまり意味のないことです。

また〝なぜ短期間に広まらないのか〟という点ですが、日蓮大聖人の仏法に大利益だいりやくがあるからといって、一年や二年で願いごとがすべてかなうというわけにはいきません。

なぜなら私たちには過去世かこせからの種々の宿業しゅくごうがあり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花かいかする時期は人によってことなるのです。また賢明けんめいな親は子供のしがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先めさき願望がんぼうを叶えるだけが仏様の慈悲じひではありません。いかなる時でも、正法を堅持けんじし生命力を発揮はっきして人生を悠々ゆうゆうあゆむ人間に転換てんかんされていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易よういに判断できるものではありません。

しかし信仰によって御本尊の功徳を実感じっかんし、体験たいけんした人々のよろこびと確信かくしんが、現在多くの人々を正法にみちびき、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳の素晴すばらしさを伝えていくためには、着実ちゃくじつな努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。

あなたが、もし本当に〝日蓮正宗は社会に広く受け入れられていない〟と思い込んでいるならば、それは認識にんしきによる誤解ごかいであり、さもなければ偏見へんけんというべきです。

また〝もっと大ぜいの人が信仰しなければ、自分は信仰する気にならない〟という意図いと冒頭ぼうとうの質問をされるならば、それはあたかも〝もう少し大ぜいの人が法律ほうりつを守らなければ、自分も法律を守る気がしない〟ということと同じで、良識りょうしきある大人おとなのいうことではありません。

他人がどうあろうと、周囲しゅういにどう評価ひょうかされようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進まいしんする人こそ、真に勇気ある人であり、聡明そうめいな人というべきでしょう。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載