2-9 先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない

だれしも先祖代々長く守ってきた宗教に愛着あいちゃくがあり、そのしゅうを捨てることは先祖の意にそむくように思い、一種の恐れのような感情をいだくのは、無理からぬことです。

しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教をたもち、その寺の檀家だんかになったかということを、昔にさかのぼって、考えてみますと、その多くは、慶長けいちょう十七年(一六一二年)に始まる徳川幕府の寺請てらうけ制度せいどによって、強制的に菩提寺ぼだいじが定められ、宗門しゅうもん人別にんべつちょう戸籍こせき)をもって、長く管理統制とうせいされてきた名残なごりによるものと思われます。

江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、じゅうするのにも、養子ようし縁組えんぐみするにも、すべて寺請てらうけ手形てがた下付かふが必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家だんかをやめることはゆるされませんでした。

したがって、庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便ほうべんの教え(仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという化導けどうを受ける機会もありませんでした。せいぜい現世げんぜ利益りやくたのんで、檀家制度とは別に、有名な神社仏閣ぶっかく縁日えんにち祭礼さいれいに出かけたり、物見ものみ遊山ゆさんを楽しむぐらいのものでした。

しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやくけて、真に信教の自由がしょうされ、みずからの意志で正しい宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。

言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力くりきによって、真の成仏にみちびくことができる時がきたのです。

釈尊の本懐ほんがいである法華経には、

きょうたもがたし、しばらくもたもものわれすなわ歓喜かんぎ諸仏しょぶつまたしかなり」(宝塔品第十一・開結354㌻)

と説かれています。

すなわち、世間の人々のちゅうしょう妨害ぼうがいのなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、たもがたく行じ難いからこそ、三世さんぜ十方じっぽうの諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。

また日蓮大聖人は、

いま日蓮たぐいしょうりょうとぶらふ時、法華経を読誦どくじゅし、南無妙法蓮華経と唱へたてまつる時、題目の光無間むけんに至って即身そくしん成仏じょうぶつせしむ」(御義口伝・御書1724㌻)

おおせられています。

本当に先祖累代るいだいの父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳をそなえ、真実の孝養をつくすことが肝心かんじんなのです。

今のあなたが、先祖が長い間あやまりをおかしてきた宗教を、そのまま踏襲とうしゅうすることは、あまりにもおろかなことです。

自分のあさはかなこころにしたがうのではなく、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓かいたくし、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載