5-9 仏教の法話は現実離れしたおとぎ話ではないか

私たちは自分の幸不幸を目先めさきの現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己じこの生命に内在ないざいする仏の生命の涌現ゆげんによって、現実の人生や生活の中にその力を発揮はっきさせることです。

そのためには、仏がさとられた真実の教法きょうぼう帰依きえし、仏のこころかなった信心修行に邁進まいしんしなければなりません。

しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力くどくりきはもちろんのこと、人間生命の実体や成仏じょうぶつ境界きょうがいなどは、あまりにも深遠しんえんすぎてとうてい理解できるものではありません。

だからといって、仏法は難解なんかいだからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心あんしん立命りつめいの人生もきずくことはできません。ここに仏の化導けどうのための手段が必要になるのです。

釈尊は、

吾成仏われじょうぶつしてより已来このかた種々しゅじゅ因縁いんねん種々しゅじゅ譬喩ひゆをもってひろ言教ごんきょうべ、無数むしゅ方便ほうべんをもって衆生しゅじょう引導いんどうして」(方便品第二・開結八九)

と説いています。すなわち仏はみずから悟った甚深じんじんの法を、人々に説くにあたって、さまざまな因縁(原因・助縁じょえん)、あるいは譬喩ひゆ(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)をもちいてみちびくというのです。

天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、

を動かして風をおしおうぎげて月をさとす」(御義口伝・御書1733㌻)

しるしています。この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹がゆらぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付きづかない人には、身近みぢかな扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近みぢかな言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。

あなたがもし、仏典ぶってんの因縁や譬喩の部分だけをとりげて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話とぎばなしだ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄せんぱく言動げんどうといえましょう。

仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意にりゅうし、耳をかたむけるべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載