5-8 手を合わせて拝むことは恥ずかしい

手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄としよりくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見へんけんがあるのではないでしょうか。いずれにしても〝恥ずかしい〟ということは、世間せけんの目が気になる、周囲しゅういの人たちから変な目で見られないかという懸念けねんがあるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変った服装ふくそうまちを歩いたとしても、別に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌がっしょうがともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化あっかさせるようなものです。

病気をなおそうと思えば、つまらない見栄みえを捨て薬をふくするのが当然でしょう。それと同じように、日蓮正宗が自分の人生にとってもっとも大切であり、絶対に正しいと確信するならば、合掌がっしょうずかしいなどとは感じなくなるはずです。

合掌は荘厳そうごん仏前ぶつぜんで、もっともとうとい御本尊に向かって清浄せいじょうな心でおこなうものであり、その十指じっし十界じっかい互具ごぐを意味し、胸にあてるところは、我が胸中きょうちゅう心性しんしょうびゃく蓮華れんげを生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作むさ三身さんじんぎょう一念いちねん三千さんぜん当体とうたいであるという深い意義をそなえているのです。

このことを日蓮大聖人は、

「合掌とは法華経のみょうなり。向仏こうぶつとは法華経にたてまつるを云ふなり」(御義口伝・御書1734㌻)

おおせられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依きえする姿であると説かれています。

ですから人間として真に幸福を願うならば、自分の小さな感情にとらわれず、また、つまらない世間の目を気にせず、真実最高の日蓮大聖人の仏法に目を開き、正直しょうじきな心で手を合わせ、御本尊を拝むべきです。

人間にとってずかしい行為こういというのは、人の道をみはずしたり、法をおかしたり、他人に迷惑めいわくをかける行為をいうのです。

宗教に対する知識ちしきを深め、自己じこの幸福はもちろんのこと、社会に平和をもたらす崇高すうこうな教えを正しく信仰するということは、恥かしいどころか、人間としてもっともほこるべき行為こういなのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載