6-8 なぜ日蓮正宗だけが正しいといえるのか
「正とは一に止まる」という言葉がありますが、正しい教法が二つも三つもあるわけがありません。これについて、釈尊は、
「十方佛土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結110㌻)
と説き、日蓮大聖人は、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事・御書1219㌻)
と仰せられています。
日蓮正宗がもっとも正しい宗旨である理由は、法華経の予証どおりに末法に出現された御本仏日蓮大聖人の教えを、七百年間にわたって現在まで清浄に誤りなく受けついできた唯一の教団であるから、といえましょう。
鎌倉時代に出現された日蓮大聖人は、末法万年にわたって人々を苦悩の闇から救済するために、数々の大難に遭いながら、南無妙法蓮華経を説き顕わされました。そして南無妙法蓮華経の法体として一閻浮提総与(全世界のすべての人々に与えるという意味)の大曼荼羅御本尊を図顕建立されたのです。この御本尊は日蓮大聖人の当体でもあり、久遠元初の自受用身という宇宙法界の根本真理の当体でもあります。
大聖人は、
「抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」(教行証御書・御書1110㌻)
と、大聖人ただ一人末法の仏として仏勅によって出現され、三大秘法の大法を広めることを明かされています。
三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇をいいますが、本門の題目とは大聖人が建立遊ばされた一閻浮提総与の大御本尊に向かって唱える題目のことであり、本門の戒壇とは、この大御本尊が安置され、しかも一切の人々が修行する場所をいいます。
したがって三大秘法のなかには「本門の本尊」が中心であり、本門の本尊なくしては題目も戒壇も存在しないのです。このゆえに本門の本尊を「三大秘法総在の御本尊」とも尊称します。
日蓮大聖人は入滅に先立って、門弟のなかから日興上人を選んで、本門戒壇の大御本尊をはじめとする法門のすべてを相承し付嘱されました。
大聖人の精神と法義を固く守られた日興上人は、時あたかも地頭の不法によって謗法の地になりつつあった身延の地を去る決意をされ、大聖人が生前より、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ」(三大秘法稟承事・御書1595㌻)
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書・御書1675㌻)
と遺命されていたとおり、日本第一の名山富士山の麓に一切の重宝を捧持して弟子たちと共に移られ、そこに大石寺を建立されたのです。
その後、大聖人の仏法は第三祖日目上人、第四世日道上人と、一器の水を一器に移すように代々の法主上人によって受けつがれ厳護されて、現在御当代上人に正しく伝えられているのです。この間の宗門史は、また正法厳護のための尊い苦難の歴史でもありました。
いま私たちが総本山大石寺に参詣し、一閻浮提総与の大御本尊を拝するとき、
「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(本尊供養御書・御書1054㌻)
の金言どおり、私たちの生命の奥底は仏の威光に照らされて金色に輝き、即身成仏の姿になっているのです。
現在、国の内外を問わず、大御本尊の広大な功徳によって苦悩を希望に転じ、福徳に満ちて信心に励む多くの人々の姿が、日蓮正宗の正しさを物語っているといえましょう。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載