5-7 信仰は個人的にするものだから、組織に入らなくともよいのではないか

人間はだれでもきゅうくつな思いをしたり、束縛そくばくされることをこのみません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉かんしょうされず、気がねすることなく、好き勝手かってに過ごしてみたいと思うでしょう。言いえれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約せいやくを受けることをきらうのです。

組織は共通の目的をもった複数の人間、または機能きのうによって構成こうせいされています。

無人島で一人で生きなければならなかったロビンソン・クルーソーの例を出すまでもなく、私たちは社会から離れてひとりで生きていくことはきわめて困難こんなんなことです。

人間社会はお互いによりよい生活を享受きょうじゅすることを目的にして、それぞれの立場で能力に応じた役割を分担ぶんたんし、社会に寄与きよすることによっていとなまれているのです。

大きくいえば、社会全体が総合的な機構きこうを持った組織体であり、この社会を国という単位で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。

この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑えんかつに運営するために、規則や法律が存在します。

これがさらにきめこまかい共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力をくすとともに、その組織によって身を守り、生活の向上こうじょうはかるなどの恩恵おんけいを受けるわけです。

このように私たちは生きている限りいく種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。

同じ組織といっても、その目的に応じて、その機構も、制約も、参加の形態けいたいも、そして恩恵おんけいも大いにことなります。たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会どうそうかいの組織では、私たち個人を規制きせいする度合いも当然ちがってきます。

私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効じっこうをもたらすために組織が必要なのです。

もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業そつぎょうさせたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価ひょうかしかくだされないでしょう。このことは信仰の道についても同様どうようです。個人的な気休め程度ていどの宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、人間としての最高の境涯きょがいである成仏をげるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道せいどうみちび向上こうじょうさせる働きを善知識ぜんちしきといいます。

伝教でんぎょう大師だいしは、仏道修行を志す者の善知識として、

一に教授きょうじゅの善知識、

二に同行どうぎょうの善知識、

三に外護げごの善知識

の三種をげています。

教授の善知識とは深遠しんえんな仏法を教え導いてくれる師範しはん先輩せんぱいを指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚どうりょうや友人であり、第三の外護の善知識とは有形ゆうけい無形むけいに私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。

これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果的こうかてき発揮はっきするために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰をみがき、つちかわなければならないのです。

心が弱く、自己本位の人は人間関係をみきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣しんけんに自己の向上と鍛錬たんれんを願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効ゆうこうかすべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載