6-7 もっとも正しい宗教とはなにか
もっとも正しい宗教としての条件は、
第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること
第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること
第五に信仰によって得られる利益が教説に適っており、表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であること
などを挙げることができます。
第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神を説きましたが、彼らは神の啓示を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、戒律によって表面的な言動を規制し、奇跡と空想を説いているにすぎません。
その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。
第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存し、その内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。この法華経の予言通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大な量の御書を書き遺されています。
第三の本尊については、本尊とは、〝根本として尊崇すべきもの〟の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値するものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ヘビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、先祖供養に名を借りて亡者の霊を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書685㌻)
と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札や守り札を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日々、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
第五の信仰による利益については、大聖人が、
「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・御書874㌻)
と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
さらに大聖人は、「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」(諌暁八幡抄・御書1543㌻)
とも、
「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・御書1293㌻)
とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。
現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜にみちて仏道修行に邁進しています。
日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載