2-6 先祖を崇拝することがまちがっているのか

先祖をうやまい、あがめることは、仏法の教義にてらして、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派りっぱ行為こういといえます。

しかし先祖を神としてまつったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝らいはい対象たいしょうとすることはあやまりです。なぜならば先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだりなやんだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁あくえんによれば苦を感じ、善縁ぜんえんすなわち正法によれば安楽あんらく果報かほうを受ける凡夫ぼんぷであることに変わりがないからなのです。言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りがられるわけではありませんし、子孫しそんを守ったり苦悩くのうから救ったりできるわけでもないということです。

世間では先祖や故人こじんを「ほとけ」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法ようほうではありません。

仏とは仏陀ぶっだとも如来にょらいともいい、この世の一切の真実のすがたと真理を一分のくもりもなくさときわめた覚者かくしゃという意味です。仏教の経典にはぶつ薬師仏やくしぶつ大日だいにち如来にょらいなどたくさんの仏が説かれておりますが、これらの仏について、法華経には、

だいじょうきょうでん諸仏しょぶつ宝蔵ほうぞうなり。十方じっぽう三世さんぜ諸仏しょぶつ眼目げんもくなり。三世さんぜもろもろ如来にょらいしゅっしょうするたねなり」(観普賢経・開結624㌻)

と説かれ、日蓮大聖人も、

「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏にり給ひしなり」(法華初心成仏抄・御書1321㌻)

とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法ほんぽうを種として仏となることができたのです。

この原理は私たちや先祖がなにによってしんに救われるかをはっきり示しています。

すなわち本当に先祖を敬い、先祖のおんむくいる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法にしたがって正しく回向えこう供養しなければなりません。

また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄はんえいと子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負せおって医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲ぎせいにされた方もいたことと思います。このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、みずからも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教をあらためたことを悲しむどころか、「宿願しゅくがんここにれり」と大いに喜ぶはずです。

先祖を敬うという尊い真心まごころを正しく生かすためには、先祖の写真や位牌いはいおがむことではなく、三世さんぜ諸仏しょぶつ本種ほんしゅである南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。

大聖人は、

父母ふもに御孝養こうようこころあらん人々は法華経をおくり給ふべし。(中略)さだめて過去しょうりょうたちまちに六道の垢穢くえを離れて霊山りょうぜんじょう御参おんまいり候らん」(刑部左衛門尉女房御返事・御書1506㌻)

と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載