5-6 信仰をするといろいろな制約があって遊べなくなるのではないか

宗教のなかには戒律かいりつを定めて、教義的な制約をしているものがすくなくありません。特にキリスト教やイスラム教・ヒンズー教などは、結婚や食物さらに医療いりょうに関することまで、こまかく制約されています。仏教でも小乗しょうじょう仏教ぶっきょうといわれるものには二百五十戒・五百戒などの戒律がさだめられています。

しかし人間の煩悩ぼんのうは八万四千ともいわれており、これらのすべてを戒律によって規制きせいすることは不可能なことです。

日蓮大聖人は、

「されば三世の諸仏しょぶつも妙法蓮華経の五字をもって仏にたまひしなり。三世の諸仏しょぶつ出世しゅっせ本懐ほんがい一切いっさい衆生しゅじょうかいじょう仏道ぶつどうの妙法と云ふはこれなり」(法華初心成仏抄・御書1321㌻)

おおせられ、戒律や智慧ちえによって成仏じょうぶつするのではなく、根本の一法である南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって成仏すると教えられています。

したがって日蓮正宗の信仰には、教義的な制約や戒律などはまったくありません。ただし、人間を不幸におとしいれる邪宗教を信ずることや謗法ほうぼう与同よどうすることはかたく禁じています。

次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間はだれでも一日を二十四時間というわくの中に制約されて生活しているわけですし、ひとつの社会や組織そしきぞくすれば、それなりの規則があり、時間や行動の面で制約があるのは当然のことです。まして正しい人生をあゆ将来しょうらいにわたってくずれることのない幸福を築くための仏道ぶつどう修行しゅぎょう、すなわち信心活動には相応そうおうの努力と時間が必要です。日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕きゅうじ仏壇ぶつだん清掃せいそう・お水やしきみなどをそなえる)と読経どきょう唱題しょうだい勤行ごんぎょうをしなければなりません。そして大聖人が、

「月々・日々につより給へ」(聖人御難事・御書1397㌻)

と教えられているように、幸福のみなもとである信心を清浄せいじょう持続じぞくするのみならず、さらに行学ぎょうがく錬磨れんましてゆかなければなりません。そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣さんけい、学習会や座談会ざだんかいへの参加などによって信心の向上こうじょうはかる必要があります。これは、なんの修行も必要としない宗教にくらべると、面倒めんどうなことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、みずから読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心がはぐくまれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であるといえるのです。

だからといって仕事や家庭が犠牲ぎせいになるというわけではありません。その人その人の生活のリズムに合わせて持続することが大切です。ここで大切なことは、〝規則や教義によって自分は制約されて窮屈きゅうくつだ〟と受けとめるか、あるいは〝規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ〟と受けとめるかということです。このちがいは物事ものごとに対していかに積極的にとりくむかという姿勢しせいと心によって生ずるものといえましょう。

正しい信仰は豊かな人間性と力強い生命力、そして深い智慧をつちかうものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても適確てきかくな判断と積極的な姿勢をつようになり、信仰活動も歓喜かんきの心をもって実践じっせんできるようになるのです。

「信仰をすると遊べなくなるからいやだ」という人は、「学校ではテレビやマンガを自由にみせてくれないから行きたくない」と駄駄だだをこねている子供と同じ理屈りくつです。

信仰をしている人でも、趣味しゅみを楽しみ、レジャーを楽しむことは一般人となんらわりません。ある人は「いままで自分が職場と家庭のことで窮窮きゅうきゅうとしていたのは、自分の生命力がおとろえていたためであったと、信心をはじめてから気付きづいた」と言います。

またある人は「遊びや道楽どうらくも、信仰をするようになってから自然に健康けんこう堕落だらくさせるものから、健康的な人生を向上させるものに変わった」と言い、ある人は「いままではさばらしのために遊びに逃避とうひしていたが、信心によって仕事に希望きぼうが生まれ、家庭が円満えんまんになった今は、充実じゅうじつした気分きぶんで本当の意味の余暇よかを楽しむようになった」とも言っています。このような体験たいけんは日蓮正宗の信者が一様いちようあじわっている一例にすぎません。

どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠悠ゆうゆうたる境界きょうがいを築き、職場と家庭と、そして余暇よかを楽しみかす人生を送ってください。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載