1-5 信仰は意志の弱い人間のすることだ

意志の強い人とは、ひとつの目的に向かって、種々の障しょう害がいがあろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、途と中ちゅうで挫折ざせつしてしまったり、またひとつのことに長続ながつづきしない、移うつり気な人が意志の弱い人といえると思います。

しかし、目的の違いや環かん境きょうの違いによって難易なんいの度合どあいもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。

また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変わってゆくのが、人間の心なのです。

したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤らしんばんのない船のように、どこへ行きつくのか見当けんとうもつきません。常つねに右往うおう左往さおうしていなければなりません。

日蓮大聖人は、

「心の師しとはなるとも心を師とせざれ」

(曽谷入道殿御返事・御書794㌻)
と、自分の心をすべての依よりどころの基盤きばんとするものではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。

なかには、何事なにごとに対しても消極的で、常つねに何かに頼たよっていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいます。

しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難こんなんを克服こくふくしていくならば、これほどすばらしい人間改革かいかくの道はありません。

事実、意志の弱さや、病びょう魔まや、さまざまな宿しゅく業ごうによる困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍かつやくし、大聖人の仏法によって、大きくその境きょう涯がいを開いています。

このような現実社会の中で人材として蘇生そせいしていく姿こそ偉大いだいな仏法の力を証しょう明めいするものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない誤あやまりです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載