6-5 なぜ日蓮正宗と他の宗教をいっしょに信仰してはいけないのか

信仰は、もっともすぐれた宗教を選び、誠実せいじつな清らかな信心をつらぬくことが大切です。

たとえば一本の牛乳に、一滴いってきの毒をぜたとしたら、いかに養分ようぶんがあるからといっても、あなたはその牛乳を飲むことはできないでしょう。

これと同じように、正しい宗教とよこしまな宗教を混同こんどうして修行することは、せっかくの正しい信仰の功徳くどくを消し、苦しみを受ける結果になるのです。

釈尊はじゅうねんけん真実しんじつと説いて、最後八ヶ年の法華経を説いたのちは、それ以前の経々きょうぎょうはすべて権教ごんぎょうかりの教え)であるからもちいてはならないことを明かされています。

ところが真言しんごんしゅう念仏ねんぶつしゅうをはじめ、すべて他の宗派しゅうはは皆この四十余年の経にっているのですから、これらの教えを法華経の真実の教えにまじえてはならないのです。

それは良薬りょうやくに毒を入れ、すべてを毒薬どくやくにしてしまうようなものだからです。

日蓮大聖人はこのことを、

「法華経を行ずる人の、一口ひとくちは南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なむあみだぶつなんど申すは、はんふんまじ沙石いさごを入れたるがごとし」(秋元御書・御書1447㌻)

といましめられています。

大聖人の教えは、末法まっぽうのすべての人々を成仏じょうぶつみちび唯一ゆいいつ大法たいほうであります。

この大法を信じながら、他の宗教を混じえることは同じように成仏の道をざすことになります。

また大聖人が、

いかに法華経を信じ給ふとも、謗法ほうぼうあらば必ず地獄じごくつべし。うるしばいかにの足一つれたらんが如し」(曽谷殿御返事・御書1040㌻)

と説かれているように、いかに正法をたもっても、ほんの少しでも法にそむくことがあれば、あたかも千ばいのうるしに一本の蟹の足を入れて、すべてのうるしの効用こうようをなくしてしまうようなものであり、堕地獄だじごくのもとになるのです。

正しい仏法は、余事よじじえずに信仰しなければ、なんの功徳くどくもありません。

大聖人が、

の南無妙法蓮華経に余事よじまじへば、ゆゝしきひがごとなり」(上野殿御返事・御書1219㌻)

おおせのように、成仏の大利益だいりやくは、日蓮正宗の仏法に余事よじを混じえず、清浄せいじょうな心をもって信じ行ずるとき、はじめてもたらされるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載