4-4 超能力を信ずることは宗教なのか

一般的に超能力とは、普通の人間の五官ごかんではなしえない力をしていいますが、本来十界じっかいの生命をそなえている人間が、周囲のえん修練しゅうれんによって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議ふしぎではありません。

仏教では、これら超能力のことを「神通力じんづうりき」あるいはたんに「通力」と呼び、これを五通ごつう六通ろくつうけて説明しています。

五通とは、

  1. 自在じざい移動いどうできる力。
  2. 透視とうしする力。
  3. 普通の人の聞こえない音を聞く力。
  4. 他人の考えを知る力。
  5. 自他の過去世かこせすがたを知る力

をいい、

六通とはこれに煩悩ぼんのうを取り去る力をくわえたものを指します。

こうしてみると現代の超能力者の中には、仏教でいう五通の一分いちぶんを持った者もいるということができましょう。

この通力については、御書にもたびたび出ており、中でも古代インドの外道げどうで、十二年間恒河ごうがの水を耳の中にとどめたという阿伽陀あかだ仙人せんにんや、一日の中に四海の水を飲みほすという耆兎ぎと仙人せんにんなどが知られていますが、これら外道の仙術せんじゅつは深く宗教と結びつき、幻術げんじゅつといって催眠さいみんじゅつを用いて人々の目を眩惑げんわくさせるものでありました。

現実に通力や超能力をもっている人はいるかもしれませんが、その能力の存在そのものは別に宗教ではありません。しかし、超能力を売り物にした行者とか祈祷師きとうしなどの教えを信じて、その通力に頼っておうかがいをたてたり、悩みを解決しようとする行為こういあやまった信仰になるのです。

日蓮大聖人は、

利根りこん通力つうりきとにはよるべからず」(唱法華題目抄・御書233㌻)

おおせになっています。利根とは、鋭利えいり五根ごこん眼根げんこん耳根にこん鼻根びこん舌根ぜっこん身根しんこん)をそなえることであり、ふつうでは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。

通力とは前にのべた五通、六通の特殊とくしゅな力をいいます。大聖人はこれらの利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見うしなわせ、成仏じょうぶつへの障害しょうがいとなるために、これらに頼ることをきびしくきんじられているのです。

ただし、こうした一般の超能力とは違った真の通力について、『法華経寿量品じゅりょうほん第十六』には、「如来秘密神通之力にょらいひみつじんづうしりき」と説かれております。この神通力とは、悪業あくごう深重じんじゅう衆生しゅじょうをも必ず成仏じょうぶつせしめるという、仏のみが持つところの究極きゅうきょく功徳力くどくりきをいいます。

大聖人は、

「成仏するよりほかの神通と秘密とはこれ無きなり」(御義口伝・御書1766㌻)

おおせです。

末法においては、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と一心いっしんに唱えることにより、即身そくしん成仏じょうぶつげられるのであり、これこそ真実の如来の秘密・神通の力なのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載