6-4 なぜ他の宗教を捨てなければならないのか

釈尊は、一代経の究極きゅうきょくである法華経に、

正直しょうじき方便ほうべんてて、ただじょうどうを説く」(方便品第二・開結124㌻)

おおせられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上むじょうの教えである法華経を最高唯一ゆいいつのものとして説かれました。そしてさらに、

余経よきょう一偈いちげをもけざるらん」(譬喩品第三・開結183㌻)

いましめています。

末法においては御本仏日蓮大聖人が建立こんりゅうされた南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因もんていほんにんみょうの法華経といって究極中の究極であり、すべてのぶつ菩薩ぼさつをはじめ全世界の民衆みんしゅうを根本から成仏じょうぶつさせる無上最高の真実しんじつほうなのです。

したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教ごんぎょうともいいます。ごんとは〝かり〟の意で、権教とは実教じっきょうに対する言葉です。

人がもし〝かり〟の教えを真実のものと信じこんでそのとおりに実行したならばどうでしょうか。月収げっしゅうが来月から十倍になるという仮定かていの話をまともに受けて浪費ろうひをしたら家計かけいはどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離ゆうりした架空かくう仮定の人生をあゆむことになるのです。

さらに日蓮大聖人は、

「『了義経りょうぎきょうって了義経りょうぎきょうに依らざれ』とさだめて、経の中にも了義・不了義経を糾明きゅうめいして信受しんじゅすべき」(開目抄・御書558㌻)

と教えられています。了義経とは完全かんぜん無欠むけつな教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典きょうてんのことで、日蓮正宗以外の宗旨しゅうし宗派しゅうははすべて不了義経にたります。

どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりもなんの経をよりどころとしているのか、教理きょうりが完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見がいけん設備せつびも立派であるが、エンジンが故障こしょうしている飛行機ひこうきのようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。

また、正しい教え以外の宗教を「覆相ふそうきょう」といいます。これは真実の教えをおおいかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれをのぞかなければならないのです。

ここを大聖人は、

「今の時は権教即実教のかたきる」(如説修行抄・御書672㌻)

と仰せられています。

人々を救おうとする仏の真実の教に敵対てきたいする不完全な宗教は、人間を生命の奥深おくふかいところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法あくほうとも苦のいんともいうのです。

大聖人は、

「悪法ひろまりて、人悪道あくどうち、国土めっすべし」(頼基陳状・御書1129㌻)

と説かれ、悪業あくごうによる果報かほうとして、

  1. 周囲しゅういの人々から軽蔑けいべつされる
  2. みにくい姿に生まれる
  3. 粗末そまつ衣服いふくものしかられない
  4. 財産ざいさんを求めて努力しても得られない
  5. まずしく下賤げせんの家やよこしまな家に生まれる
  6. 不慮ふりょ災難さいなんや事故に
  7. 人間としての苦しみを常に味わう

と教えられています。

このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩くのうの底につきとす悪法であり、仏の真意しんいそむかりのものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に毒薬どくやくというべきでしょう。

釈尊は、

ただ虚妄こもうはなるるをづけて解脱げだつす」(譬喩品第三・開結173㌻)

と説いています。真実の幸福は、虚妄こもう(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依きえすることによってられるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載