4-3 霊媒に頼ってよいのか

霊媒れいばいは人間と死者の霊を媒介ばいかいする者で、わが国では青森県恐山おそれざんの〝いたこ〟が有名です。

この〝いたこ〟は依頼者いらいしゃの求めに応じて神がかりとなり、口寄くちよせによって死者の思いを伝えたり、その心をなぐさめる役割やくわりをしているのですが、最愛さいあいの人を失った遺族いぞくにとって、故人こじんが今なにを考え、どういう状態じょうたいであるかを知りたいと思うのは、人情として無理むりからぬことといえるでしょう。

文明の発達した今日、なお霊媒が存在し口寄せなどが続けられている現実は、死者への思いはいつの時代にあっても変わらないというあかしでもあろうと思われます。

たしかに、故人の声をもう一度聞くことができれば、遺族の気持ちは休まるかも知れませんが、死者の気持ちを知ったところで、その深い苦悩くのうを消し去ることも、悲しみに打ちひしがれた心を真になぐさめることもできないのです。

それはあたかも、釈尊しゃくそんの弟子である目連尊者もくれんそんじゃが、小乗しょうじょうの悟りによって神通力じんづうりきで、餓鬼がきどうにおちて苦しむ母親を救おうとしても救うことができなかった故事こじと同じです。

結局、目連尊者は法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて母親を成仏にみちびくことができたといわれています。

仏教には感応道交かんのうどうこうの原理が説かれており、仏と衆生しゅじょうとの間につうじて感じ応ずる働きがあるといわれます。これを悪用あくようしたのが霊媒信仰なのですが、仏の教えを除外じょがいしてたんに迷いの衆生と死者が感応したからといって真の救いになるわけではありませんし、かえって共に苦しむ結果になるのです。

ましてや現在の霊媒や〝いたこ〟としょうする者のほとんどは、それを商売の手段しゅだんとしているだけで、死者と感応する力はないのです。

いずれにせよこのような霊媒は、仏法本来の目的から逸脱いつだつした邪道じゃどうなのですから、たよってはいけません。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載