3-3 宗教は精神修養にすぎないのではないか
精神修養とは、精神を錬磨し品性を養い人格を高めることですが、一般には心を静め精神を集中することをいうようです。
芸術やスポーツなどを通して精神を磨き、人格を高めるならば、それは立派な精神修養です。
数多い宗教のなかには、精神修養の美名を看板にして布教するものがあります。その代表的なものとして禅宗があげられます。
煩雑な毎日に明けくれている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会が少ないためか、管理職者や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅が取り入れられ、ブームになっているようです。
では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し心を定めて動じないことを禅定とか三昧といい、仏道修行のための初歩的な心構えとして教えており、これが仏教の目的でないことはいうまでもありません。
また人格品位の修養についていえば、仏教の中の小乗教では、悪心悪業の原因は煩悩にあり、煩悩を断滅して身も心も正された聖者になることがもっとも大切であると説き、戒律を守り智慧を磨くことを教えました。これを二乗(声聞・縁覚)の教えといいます。しかし大乗教では、自分だけが聖者になっても他を救おうとしないのは狭小な考えであり、思考や感情に誤りのない聖者でも、それだけでは真実の悟りではないと、小乗教を排斥し、自他ともに成仏を目指す菩薩の道を示しました。
そして究極の法華経では、さらに進めて、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏乗といって衆生を仏の境界に導くことに尽きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕わす)といいます。
もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直ちに現今の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性の向上を計る精神修養の意義が含まれているということができましょう。
釈尊は、
「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう」(方便品第二・開結103㌻)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄・御書1519㌻)
と仰せられるように、仏法の目的は精神修養などに止まらず、成仏すなわち三世にわたる絶対的な幸福境界の確立にあるのです。
したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤っているだけでなく、仏教本来の目的からも大きな逸脱を犯す結果になっているのです。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載