1-3 信仰はもうこりごりだ

現在、日本にはおよそ500の宗教団体があります。

そのなかには、古い歴史れきしと伝統でんとうをもつ宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様たようです。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目じもくを惑まどわすような、小さな通力つうりきや利益りやくを説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命けんめいです。

「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を踏ふみ入れ、そのつど、願いも叶かなわずむなしい思いを味わった人であろうと思います。

宗教は人の心と生活の全体に影えい響きょうを持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な志こころざしを立てても、その結果は逆ぎゃくになってしまうのです。

しかも、邪よこしまな宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨ひさんなその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だとも思っていないことです。

このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。

今も非常に多くの人々が、その麻薬まやくのような利益りやくに執しゅう着ちゃくして、抜ぬけられないでいるのですが、何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。

しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把一じっぱひとからげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率けいそつに過すぎます。

それは、あたかも一部の警察官の不祥事ふしょうじをもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳あくとく医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否きょひする愚ぐに似にています。

日蓮大聖人は、

「人路みちをつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪つみとなるべしや」

(撰時抄・御書835㌻)
と仰おおせられています。過去にあなたが邪よこしまな宗教にとらわれ、欺あざむかれてきた原因は、あなたに正法正義を選択せんたくする力がなかったからなのです。ですから邪教に惑まどわされた自みずからの不明ふめいを顧かえりみて、真実の宗教と邪教とを識別しきべつする方途ほうとを知る必要があります。

大聖人は、宗教の正邪浅深せんじんを知る物差ものさしとして、

「法門をもて邪じゃ正しょうをたゞすべし。利根りこんと通力つうりきとにはよるべからず」

(唱法華題目抄・御書233㌻)
と教えられています。

つまり、仏法の正邪は、耳目じもくを惑まどわすような通力つうりきによって決めてはならない。あくまでも、人々を救きゅう済さいできる道理どうりと働きと力を教え授さずける法門によって決めなさい、と説かれています。

さらに大聖人は、

「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証しょう文もんとにはすぎず。又道理証文よりも現げん証しょうにはすぎず」

(三三藏祈雨事・御書874㌻)
と説かれています。

すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確めいかくな仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付うらづけられていなければならないと説かれています。

この三さん証しょう(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と常じょう識しきにも充分対応たいおうし、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って逃にげていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載