1-2 信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか

「宗教はアヘンだ」と言ったのは、かの有名なマルクスです。彼は、当時の退廃たいはい的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾むじゅんの解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘してきしたのです。

宗教とは、本来ほんらい一個の人間がいかに生きるかというところに、その目的があるのですが、中世のキリスト教を初めとする過去の宗教の歴史では、むしろ、宗教のために個人が翻弄ほんろうされてきたというのが事実です。宗教のために人が翻弄された時ほど、悲惨ひさんなことはありません。そこではすべての人間性と理性は神の名のもとに否定ひていされ、人間は神の奴隷どれいでしかなかったのです。マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような暗い、人間性を無視むしした宗教を指したものでした。

キリスト教に限らず教条主義的きょうじょうしゅぎてきな宗教は、あらゆることを神の言葉に服従ふくじゅうすることだけを強調して、善良な信徒の理性をマヒさせるものなのです。

しかし、すべての宗教が同様どうようであるということではありません。正しい法義と正しい本尊を説き明し、ひとりひとりの人間の生命力を蘇生そせいさせ力強く人生を開拓かいたくし、真の幸せな境涯きょうがいを築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一ゆいいつの宗教があります。

それが日蓮大聖人の仏法です。

大聖人は、

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生ちせい産業さんごうは皆実相じっそうあい違背いはいせず』」

(檀越某御返事・御書1220㌻)

と説かれています。すなわち、仏法とは世間せけんほうとかけはなれたものではなく、治生産業に励み、よき人材となって成長していくことを目的としているのです。

日蓮大聖人の仏法をたもつ者は、この精神を根本として、社会の中にあっても積極的せっきょくてきに行動し、あらゆる分野で活躍かつやくしています。

人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。しかし、大聖人の仏法を信心する者は、たとえぎゃっきょうの中にあっても、信仰の功徳によって、苦難にも勇敢ゆうかんに立ち向かい、諸難を乗りえていけるのです。

真実の宗教は、人間の意識をしょうきょくてきにするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服こくふくする強い生命力を発揮はっきさせ、積極的に生きる力をはぐくむものなのです。弱い人間が信仰に逃避とうひして、つかのの安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。

アヘンのごときじゃきょうにまどわされることなく、きゅうどうの心を開き、勇気を持って真実の正法に帰依きえし、そのりょうやくを口にふくみ、正法をあじわうときにこそ、真の人生のはつらとした生き甲斐がいを見い出すことができるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載