5-2 信仰をすると周囲から奇異な目で見られるのではないか

人はみな生き方が違いますし、宗教に対する認識にんしきもそれぞれことなります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。

今あなたは信仰の必要性を認識にんしきしたものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。

しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観はとうたものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことにしたがったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。

欧米おうべいでは「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ししんも持っていない人だと軽蔑けいべつされ、奇異な目で見られるそうです。

また現代は宗教の時代といわれ、世間せけんでも人生を充実じゅうじつさせるために宗教の必要性を痛感つうかんしている心ある人がふえているといわれています。

現代では信仰をつことがずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上こうじょうしようという心ある行為こういといえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判ひはんしているわけではなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。

日蓮大聖人は、

「百千はせたるくすりも口にのまざればやまいえず。くらに宝をてども開く事を知らずしてかつへ、ふところに薬をもちてもまん事を知らずして死するがごとし」(一念三千法門・御書110㌻)

おおせられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福はきずかれないと教えられています。

他人の目を気にして至上しじょうの宝である正法の信仰を持たず無為むいごすことは、あなたの人生にとって最大の損失そんしつになるのです。

入信当初は、一時こころない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯きょうがいを築くのだ」という、強い自覚と信念とほこりをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直みなおして尊敬そんけい眼差まなざしをけるようになるでしょう。

大聖人は、

「さればたもたるゝ法だに第一ならば、たもつ人したがって第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298㌻)

と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。

どうか、とりし苦労や弱気よわきをふりはらい、勇気をもって真実の門に入り、正々せいせい堂々どうどうと人生の大道をあゆんで下さい。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載