3-15 無神論ではなぜいけないのか

無神論とは、信仰の対象たいしょうとなる神や仏などの絶対的存在そんざいの事実と可能性かのうせい否定ひていする考えで、「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、信用とか信頼しんらいなどの日常生活上の心理しんり作用さようまで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力ぜったいりきの存在を認めないということです。

また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的ゆいしんてき主張しゅちょうをする人もいます。

たしかに、ほとんどの宗教で説く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果いんが道理どうりはずれた空想くうそう産物さんぶつですから、無神論をとなえることも無理むりからぬことかもしれません。

これにかんして面白おもしろい話があります。あるキリスト教の教会で、全智ぜんち全能ぜんのうの神について語りえた牧師ぼくしに向かって、ひとりの少年がたずねました。「なんでも可能な全智全能の神様は、自分で持ち上げられない石をつくれますか」と。牧師は返答へんとうきゅうして口をじてしまったということです。

この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかにじゅんにみちたものであるかを、短い中にするど指摘してきしています。

しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者としょうする人は、神や仏がまったく存在しないことを立証りっしょうできるのでしょうか。少なくとも仏教に耳をかたむけ、仏典ぶってんひもといたことがあるでしょうか。

もしあなたがみずからの狭小きょうしょうな体験や臆測おくそくをもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純たんじゅん発想はっそうであり、はなはだしい認識にんしきひょうであるといわざるをえません。

今、参考までに仏教の概要がいようを説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していたちょう現実的げんじつてきな絶対神を立てる宗教を邪義として排斥はいせきし、みずからの修行と思索しさくによってさときわめた法を五十年間にわたって諄々じゅんじゅんと説き、その最後に究極きゅうきょく実教じっきょうたる法華経を宣説せんぜつされました。その教えは、因果いんがの理法を基底きていとして、法界ほうかいの真理と人間生命の実相じっそう開示かいじするものであり、衆生しゅじょうしょうろうびょう四苦しくを根本的に解決して真実の幸福境界きょうがいに至ることを目的としたものでした。そして法華経にしょうされたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。

日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血しんけつそそいで多くの教えをのこすとともに、一切いっさい衆生しゅじょう成仏の法体ほったいとして大御本尊を図顕ずけんされました。

この大聖人の仏法は、経文きょうもんらし合わせ(文証もんしょう)、因果律いんがりつや現実の道理に照らし(しょう)、実際に信仰した結果を見ても(現証げんしょう)、一点のくもりもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。

もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力くどくりきを信じられないというならば、謙虚けんきょに仏法の教えをい、みずから仏道を求めるべきでありましょう。

日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然げんぜんと存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。

この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論にしゅうするならば、それは、精神異常者のような精神構造こうぞうというべきです。

大聖人は、無信むしんぎょうの者に対して、

ぼうと云ふはただ口をもっそしり、心を以てそしるのみ謗にはあらず。法華経流布るふの国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(戒体即身成仏義・御書10㌻)

おおせられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法にそむ大罪だいざいであると、かたいましめられているのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載