3-14 道徳さえ守っていれば宗教の必要はない

道徳とは現実の社会に、善良ぜんりょうな人間として生きて行くために、みずからをりつし、たがいに守るべき社会的な規範きはんをいいます。

したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別ふんべつを心て、みずからの良心にも、社会的な規範にもじることのないように生活してゆくことが大切です。

しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障ざいしょう消滅しょうめつし、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。

つまり道徳は、今世こんぜに生きる人々の生活を正し、人間性をたかめる意味での指針ししんとはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世さんぜ因果いんがを説かず、三世にわたる一切の人々の救済きゅうさいとはなりえません。

日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、

王臣おうしんを教へて尊卑そんぴをさだめ、父母を教へてこうの高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依きえをしらしむ」(開目抄・御書524㌻)

おおせになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分じょぶん役割やくわりをはたすものだとしるされています。

昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養こうよう」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よくつかえ、その恩にむくいることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年いた両親の面倒めんどうをみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、みなともに救っていくというところにきわまるのです。

したがって仏法では正法による孝養を、「上品じょうぼんの供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品げぼんの供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。

大聖人は、

「法華経を信じまいらせし大善は、我が身ほとけになるのみならず、父母ほとけになり給ふ。かみ七代しも七代、かみりょうしょうしも無量生の父母等存外ぞんがいに仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以てあまねく一切におよぼし、我等と衆生しゅじょうと皆ともに仏道をじょうぜん』」(盂蘭盆御書・御書1377㌻)

と、正法を行ずる大善だいぜんこそ、自ら仏のきょうに至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。

このように正しい信仰をとおして自分をみがき、さらに世の中の人々をきょうして、正法の功徳を社会の一切いっさいの人々におよぼし、ともどもに仏道を成就じょうじゅすることが、最高最善の生き方となるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載