4-14 現代の生き仏、生き神と呼ばれる人がいるが、どうとらえるか

現代の新興宗教には、教祖をそのまま神、仏と信じあがめる宗教があります。それらの中で主な宗派としては、天理教てんりきょうの中山みき、大本教おおもときょう出口でぐち王仁おに三郎さぶろう世界せかい救世教きゅうせいきょう岡田おかだ茂吉もきちなどがげられます。これらはすでに亡くなっておりますが、現身げんしんになんらかの啓示けいじを受けて特別な能力を得たといい、神がかり状態になったといわれます。

現在も数多くの新興宗教や群小ぐんしょう教団きょうだんの中には、〝生き神さま〟としょうされる教祖がいるようです。では、このような生き神、生き仏と称する人は信用できるものなのでしょうか。もしある人が精神異常いじょうをきたし、突然とつぜん自分は神さまだと言い出したならばどうでしょうか。

これについて二つの点から考える必要があると思います。

その第一は、むかし釈尊しゃくそんが出現される以前には、九十五派のバラモンがあり、その中に生き神と同じような教祖も多くおりました。これに対して釈尊は、すべての世界は因果いんが原理げんりによって構成されており、因果を無視したり、因果を説かない教えは真実のものではない、と破折はしゃくされました。

日蓮大聖人も、これら外道げどう邪義じゃぎに対して、「実に因果をわきまへざる事嬰児ようじのごとし」(開目抄・御書526㌻)とおおせられております。

生き仏や生き神と称する人は、いったい如何なる因行いんぎょう修行しゅぎょうして神や仏になったのでしょうか。いんがなく、ただのみが突然あらわれる奇跡きせきなどというものは実際じっさいには存在しないのです。

ですから、もしある日突然、神がかりとなったとしても、因行が説明できない神や仏ならば信ずべきものではないのです。

第二の点は、生き仏や生き神といわれるものが、はたして真理に体達たいだつした聖人や、経典によって予証よしょうされているかどうかということです。御本仏日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として現実の五濁ごじょくの世に出現されて、法華経に説かれた予証を体現たいげんされたのです。

これについて大聖人は、「此等これらの文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語だいもうごの人、阿鼻あび地獄じごくはいかでのがれ給ふべき](報恩抄・御書1019㌻)と仰せられています。

経文に予証されていない生き仏や生き神といわれるものは、しょせん信用するにたりないものであり、少しばかり人間ばなれをした能力があったとしても、衆生しゅじょうを根本から救うべき正法の導師どうしなどではないのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載