5-14 南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じではないか

「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈かいしゃくすれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依きえ(南無)するという意味です。

日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極きゅうきょくの経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。

しかし日蓮大聖人は、

いま日蓮が唱ふる所の題目は前代にことなり、ぎょう化他けたわたりて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・御書1594㌻)

おおせられ、大聖人が建長五年四月二十八日に唱えいだされた南無妙法蓮華経は、いまだだれも唱えなかったものであると説かれています。

さらに大聖人は、

「仏のこころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・御書685㌻)

とも、

かれだつこれしゅなり。彼は一品いっぽん二半にはん、此はただ題目の五字なり」(観心本尊抄・御書656㌻)

とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とはことなったものであると示されています。

では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、

無作むさ三身さんじんとは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号ほうごうを南無妙法蓮華経とふなり」(御義口伝・御書1765㌻)

と説かれています。すなわち無作三身(宇宙うちゅう法界ほうかいを我身・我体としてさとられた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名ぶつみょうを南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人にほかなりません。これについて、さらに、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体とうたいなり」(御義口伝・御書1773㌻)

と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切いっさい衆生しゅじょう済度さいどする本門の本尊であると示されています。

したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人の当体とうたいなのです。

大聖人は、

「本尊とはすぐれたるを用ふべし」(本尊問答抄・御書1275㌻)

と私たちに本尊の大切さを教えられています。

いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派かくはのように、釈尊しゃくそんぞうおがんだり、竜神りゅうじん大黒天だいこくてんあるいは稲荷いなりに向かったり、さらには霊友会れいゆうかい立正りっしょう佼成こうせいかいのように死者の戒名かいみょうに向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えにそむ悪業あくごうを作ることになります。

人でも自分とちがった名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼ひれいにあたると同じ理屈りくつです。

せっかく日蓮大聖人をあがめ、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意ごしんいかなった正しい御本尊に向って唱題すべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載