4-13 厄年はあるのか、厄を防ぐには

世間せけんでは、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄たいやくだといって心配している人が大ぜいいます。

しかし、日蓮大聖人は、

「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅しちなんそくめつ七福即生しちふくそくしょうとはこれなり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事・御書757㌻)

と妙法の信徒にとって、厄はけっしておそろしいものではなく、むしろその時こそ若さをし、はつらつとして福徳ふくとくむことができるのだということを教えています。

厄という字は、もともとは木のふしのことで、木に節があると製材せいざい木工もっこうこまるところから転じて、わざわいや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。

また厄年の年齢区分くぶんについていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生のり目にあたる年祝としいわいの行なわれた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種のやく資格しかく、また壮年より老年組に入る節目ふしめのことで、けっしてみきらうことではなかったのです。

また女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節目にあたる時期だったようです。

大聖人は、

「やくと申すはたとへばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし関節ほうには四維よすみの如し」(日眼女釈迦仏供養事・御書1352㌻)

と、さいころのかどますのすみ・人体の関節かんせつ・方位の四隅よすみなどのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだときょうされています。

そうした時期に、たんなる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合ごろあわせをして思い悩むのはまったく馬鹿ばかげたことだといわなくてはなりません。

また、世間の迷妄めいもう紛動ふんどうされて、よこしまな神社や寺でやくばらいなどをたのむ人は、大聖人が、

ぜんを修すると打ち思ひて、またそばの人も善と打ち思ひてあるほどに、思はざるほか悪道あくどうつる事のそうろうなり」(題目弥陀名号勝劣事・御書331㌻)

と説かれているように、かえってよけいにわざわいやきそうのです。

大聖人の、

やくの年災難さいなんはらはん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・御書1224㌻)

との教えどおり、私たちはこの厄年の節目ふしめの時こそ、邪信・邪説にまどわされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心をふるい起こして、七難即滅しちなんそくめつ七福即生しちふくそくしょうの、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載