2-13 信仰は必要なときだけすればよいのではないか

〝信仰を必要とする時〟とは、どのような時をすのでしょうか。苦境くきょうに立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的かんれいてきに神社仏閣ぶっかく参詣さんけいする正月や盆、彼岸ひがんを指すのでしょうか。あるいは冠婚かんこん葬祭そうさいの時でしょうか。または人生のなかで老境ろうきょうに至った時という意味でしょうか。

こうしてみると、〝信仰を必要とする時〟といっても、受けとり方によって意味がまったくことなりますから、一部分のみをとらえて、そのよししを論ずることはできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、〝信仰をしなくともよい時〟があるかどうかを考えてみましょう。

そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。

信仰の意義として大要たいよう次の三点がげられます。

第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間をえた宇宙うちゅう法界ほうかいの真理をさとった本仏が、私たち衆生しゅじょうに対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。それはあたかも人生という草木を生育せいいくしている大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適かいてきに走らせるためのレールのようなものです。私たちの人生はいも若きも平等に時々じじ刻々こくこくと過ぎ去って行きます。だれもが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針ししん欠落けつらくした、さまよえる人生というべきなのです。

第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高すうこう境界きょうがいを目標として修行することです。成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧ちえ涌現ゆげんさせ、何ものにもくずれることのない絶対的に安穏あんのん自在じざい境地きょうちきずくことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ努力と精進しょうじんが必要です。どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道をきわめるためには、正しい指導とたゆまぬ修行鍛錬たんれんがなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。

第三に正しい宗教とは人生の苦悩くのうを根本的に解決するためのものであり、これを実践じっせん(信仰)すればおのずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力がそなわるのです。それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天ぶってん加護かごを受けることも厳然げんぜんたる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みをかかえながら生きているのではないでしょうか。また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕をじるかもわからないのです。〝必要な時が来れば信仰する〟などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄むだにしているといわざるをえません。

あなたにとって〝信仰が必要な時〟、それはいまをいてないのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載