5-13 世界平和を説く宗教が他の宗教を攻撃して争うことは自語相違ではないか

平和といえばその反対が戦争であることはだれにでもすぐ思いかぶでしょう。

戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小しゅくしょうした形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益りえき欲望よくぼう(エゴ)のみをたそうするときに起きます。これを仏法では貪欲とんよくといいます。次に感情的な忿怒ふんぬによる場合があります。これを瞋恚しんにといいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡ぐちといいます。その外に高慢心こうまんしん猜疑心さいぎしんが争いのもとになることもあります。

国家かんの戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有ぐゆうしている貪瞋とんじん三毒さんどく、あるいは慢疑まんぎを加えた五悪心ごあくしんの作用に起因きいんします。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法まっぽうといって、劫濁こうじょく(時代・社会そのもののみだれ)、煩悩濁ぼんのうじょく(苦しみの原因となる貪瞋癡などの迷い)、衆生濁しゅじょうじょく(人間の心身両面にわたるよごれ)、見濁けんじょく(思想の狂いや迷乱めいらん)、命濁みょうじょく(生命自体のにごりや・短命)の五濁ごじょくが強大となって、いたるところで争乱そうらんさつりくが絶えまなく行われる時(闘諍とうじょう堅固けんご)と予言されています。

たしかに人命軽視けいし刹那的せつなてき欲望よくぼうによる犯罪はんざい、そして自己中心の風潮ふうちょうは現代社会の病巣びょうそうとして深刻しんこくな問題となっています。これらの社会問題が貪瞋癡の三毒というたんに理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面的な道徳どうとく教育や、倫理りんり訓話くんわなどで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらをおかしてしまう事実は、もはや知識や教育の次元をえて、人間生命の奥底おうていからり動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いがみ、戦火がしずまっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛ごうじょうの人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。

質問のように戦争と破邪はじゃ顕正けんしょう折伏しゃくぶくとを同一して自語相違じごそういだといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相せそうを正し、仏法によって浄化じょうかし、一切いっさい衆生しゅじょう悉有しつう仏性ぶっしょう(誰人も仏になる可能性をもったとうとい存在ということ)自利じり利他りた(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽しんぎ厳格げんかくに区別し、選択せんたくしなければなりません。

私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃こうげきするのではなく、あくまでも邪悪じゃあくな宗教や低級な思想を平和を破壊はかいするものとして指摘してき論破ろんぱするものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見のちがいがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益むえきだと非難しているようなものです。

本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載