5-12 自分の宗派だけを正しいと主張することは「エゴ」ではないか

「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己りこ主義しゅぎという意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益りやくがあると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛しゃへいかくほうといって他経をてよじよと教えますし、禅宗ではきょう別伝べつでんといって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心いしんでんしんで自宗のみに伝えられていると主張します。

宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒いきょうととの闘争とうそうにあけくれています。これらのすべては自らの優越性ゆうえつせい誇示こじするところにたんはっしています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。

たしかに、周囲を無視むしし、道理どうり現証げんしょうを無視していたずらに自己の優越性ゆうえつせいのみを主張することは独断どくだんであり、しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討けんとうし、その上で、〝しきエゴ〟の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て、〝宗教はすべてエゴだ〟と速断そくだんして宗教全体を否定ひていすることは、決して賢明けんめいな態度ではありません。

難解なんかいな宗教教義を判定するひとつのじゅんとして、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果律いんがりつ立脚りっきゃくしているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源きげんは神が土のちりからつくり出したものだといいますが、その神はだれによって作られたかという点は説いておりません。神道しんとうでも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて〝三世さんぜにわたる因果律〟を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間がみょう依止えしする宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇そんすうを呼びかけることこそ〝悪しきエゴ〟というべきです。

仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根きこん衆生しゅじょうの性格と心)を調養ちょうようし、最後にもっとも完全で功徳力くどくりきのある法華経を出世しゅっせ本懐ほんがい(目的)として説き顕わしたのです。

これを釈尊自身も法華経のなかで、

「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去にすでに説いたもの(已説いせつ)、今説いたもの(今説こんせつ)、将来説くであろうもの(当説とうせつ)、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・開結325㌻取意)

と、法華経がもっともすぐれたものであることを主張しています。

日蓮正宗では、正法によって衆生しゅじょう救済きゅうさいを願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的ふへんてきな宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張しているのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載