4-12 水子のたたりはあるのか
最近、「水子のたたりを慰める」ためとして、水子供養を売り物にするいわば新種の慰霊産業が目だつようになりました。全国の至るところの寺院では、水子地蔵や水子観音なるものが建てられ、易者や霊能者たちは、水子のさわりやたたりによって現在の不幸や病気などがあるとおどかしています。また新聞の広告には水子除霊(霊を取り除くこと)のはでな誘いとともに、水子のたたりの例をあげ、いたずらに恐怖心をあっおっているのをみかけます。
これらの宣伝によって作られた水子供養ブームは、ことさら迷える人々に対して、家庭内の不幸や、精神的な不安も「水子の霊を供養すればすべてかたづく」という安易な思想を植えつけ、増大させているように思われます。
水子について考えてみますと、昔、とくに享保・天明・天保などの三大飢饉のときには生活防衛のためにやむなく「間引き」という農業用語が転じて用いられたほど、堕胎や嬰児殺しが多かったといわれています。
また中には、優生保護的な意味からやむをえず中絶しなければならなかった場合もありましょう。しかし、現在では生活のためというよりもむしろ、性風俗の乱れや道徳心の欠如からくる人工中絶による水子が多いようです。このあたりに水子供養ブームの一因があるように思われます。
仏教では人間の生命が胎内で生育する次第を五位に分けて説いています。
一にカララン位(和合と訳され父母の赤白二渧が初めて和合する位)
二にアブドン位(皰と訳され、二七日を経て瘡疱の形となる位)
三にヘイシ位(血肉と訳され、三七日を経て血肉を形成する位)
四にケンナラ位(堅肉と訳され、四七日になり肉のかたまる位)
五にバラシャキャ位(形位と訳され、五七日を経て六根が備わる位)そして出生を待つと説かれています。
この説は受胎後、胎児が直ちに生命体として生育を始めることを明かしており、現代医学と近似しているものといえましょう。まさしく胎児は人格とまではいえないまでも、生命ある〝ひと〟として生きているのです。
そして、十界互具・一念三千の仏法の生命観より見れば、たとえ小さな胎児の生命にも必ず仏性を具し、あらゆる可能性を秘めているのです。ですから「水子のたたり」があるかといえば、そのようなものはありませんが、堕胎という生命軽視の行為はなんらかの罪障を作ることになるでしょう。
そのために大事なことは、何よりも正しい仏法を基調とした生命観の確立と、道徳心の向上をはかるということであり、もし不幸にして水子があった場合は、正しい因果律をふまえた真実の仏法による追善供養と、本人自身の罪障消滅の祈念こそがもっとも肝要なことといえましょう。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載