3-12 宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか

幸福という概念がいねんは、人によっていろいろなとらえかたがあるようです。一般には、健康とか、家庭円満とか、金銭的に恵まれているといったように、いわゆる、運がよくしあわせなことや、心が満ちたりて楽しい状態にあることを指して幸福というようです。

しかし実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福ゆうふくに見える人たちが、必ずしもそれらに満足まんぞくして楽しく生活してるとはいえない場合が多いのではないでしょうか。

むしろ、「珍膳ちんぜんも毎日くらえばうまからず」とか「欲にいただきなし」といわれるように、かえって、恵まれた生活に生ずる特有とくゆう倦怠けんたいや不平不満、欲望よくぼうのぶつかりあいによる人間不信やあらそいなど、さまざまな不幸に苦しんでいるという例も、少なからずあるのです。

まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、人生のじょうからは、どのような人もけっしてのがれることはできません。

人生のじょうとは、せいあるものは死に、若きものはい、すこやかなるものもわずらうなど、一切のものは生滅しょうめつし変化して、しばらくも同じ姿をたもつことができないとの意味です。

仏典には、カピラじょう太子たいしとして、すぐれた身体をち、あらゆる栄華えいがにつつまれてらしていた釈尊しゃくそんが、そのすべてをててしゅっし、さまざまな修行のすえ、三十歳の時、菩提樹ぼだいじゅもとで、ついに人生無常の苦を真に解決する法を、さとられたと説かれています。

したがって、この世に人生無常の苦を真に解決して、生滅しょうめつ・変化にまどわされることなく、いかなる幸せをも自在じざい顕現けんげんしていく道は、正しい仏法に帰依きえすること以外にはないのです。

それでもなお、あなたは「宗教をもたなくても幸福な人はたくさんいる」というのでしょうか。

それはまさしく「三重のたかどのたとえ」(ひゃく経第十)に説かれる「みておろかの人」と変わるところがありません。

そのたとえとは、「あるとき、彼は他の富豪ふごう屋敷やしき立派りっぱな三階建てであるのを見て、自分もそれにまさる建物を建てようと思い、すぐさま大工だいくさんを呼んでたのんだのです。

さっそく基礎きそ工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審ふしんを感じた愚かな富豪は「私は三階だけがほしいのだ、下の一、二階はいらないのだ」と言いって、「一階をつくらずに二階はできないし、二階をつくらずに三階はできない」という大工さんの言いぶんを、最後まで聞かなかった」という話です。

正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考えと、同じようなものといっても過言かごんではありません。

しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたってもこわされることがないように、正しい宗教を人生の基礎とし・土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。

このように、人生における確固不動かっこふどうの真の幸福は、正しい宗教を正しく信仰することによってのみ、もたらされるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載