2-12 信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ

日本国憲法の第二十条に、

信教しんきょうの自由は、何人なんびとに対してもこれを保障する」

と、明確に信教の自由が保障されています。

この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制とうせいの歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。

朝廷ちょうていによる宗教への保護と規制きせい、また、江戸幕府の寺請制度てらうけせいど転宗てんしゅう禁制きんせい、近代国家主義下の神道しんとうの強制などの歴史をて、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧だんあつ迫害はくがいの恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。

しかし、ここで私たちが注意しなくてはならないことは、どのような信仰をたもとうとも、たしかに法律の上では自由を保障される時代を迎えたとはいえ、信教の自由の意味をたんに、宗教の正邪、善悪ぜんあく無視むしして、何をどう信じてもいいと、安易あんいにとらえてはならないということです。

信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利の行使こうしには、それを正しく役立てていく、主権者しゅけんしゃとしての責任もあるのです。

法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断をくだし、規制することはできませんが、実際に宗教を選ぶという時には、一人ひとりが正邪をきびしく判定して、唯一ゆいいつの正法を選ぶことが肝要かんようです。

信教に限らず、尊い自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、みずからの責任において、立派りっぱにその恩恵おんけいを行使していく意志を持たなくてはなりません。

せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸ほういつ(わがまま)の意味に曲解きょっかいするのは、あまりにも無責任にぎます。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載