3-11 自己の信念を宗教としている

人はだれでもなんらかの信念を持って生きています。それも人生全般にかかわる信念もあれば、人生の部分に対する信念もあります。

たとえば「宵越よいごしの金は持たない」という人もいれば、「無駄むだづかいはしない」という人もいます。また「少々の熱やせきは働いていればなおる」と信じている人もいれば、「少しでも具合ぐあいが悪ければ医者に行くにかぎる」という人もいるというように、一人の人間の信念といっても、金銭面・健康面・教育面・職業面などにわたって多種たしゅ多様たようです。

しかもそれらの信念は、その時代や環境・年齢ねんれいなどによって変化することも多いのです。

それは人間の心が常にれ動くものであり、その心によってみ出される価値かちかんや信念が定まることなく変化するのは当然といえましょう。と同時に私たち凡人ぼんじん智慧ちえや判断にはおのずから限界げんかいがあることも当然です。

このような個人的な信念を宗教とする生き方が、はたして正しいのでしょうか。

「宗教」とは、真理をさときわめた聖者せいじゃが、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。

すなわち、正しい宗教とは法界ほうかいの真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏あんのんな境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉げんせんなのです。

したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地てんち雲泥うんでいことなりがあるわけですし、これを同等どうとうに考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。

個人の信念のみを強調して宗教を否定ひていする人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則きそく拘束こうそくされて、画一的かくいつてきな人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由がうばわれるのではないか」と懸念けねんするむきもあるようです。

しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべてそだやしなう大地のように、ひとりひとりの個性や信念をえて、それぞれの人生を開発かいはつし、開花させるものであり、けっして画一的かくいつてきな価値観や思想を押しつけるものではありません。

現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧よくあつされるどころか、信仰につちかわれて、より健全けんぜんび伸びと発揮はっきしつつ社会の中で活躍しています。

また日ごろはそれほど信念についてしゅうしたり深く考えているわけでもないのに、こと宗教や信仰の議論ぎろんになると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈りくつならべる人もいるようです。

いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思いちがいや人生を狂わせる考えにおちいることもありましょう。

あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実けつじつさせるためには、主体者しゅたいしゃであるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依きえし、信仰にはげむことが絶対に必要なのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載