2-11 自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ

位牌いはいとはむかし中国において、存命ぞんめいちゅうに受けた官位かんい姓名せいめいしるした木牌もくはいに始まるといわれています。

日本では、葬儀そうぎのときに白木しらきの位牌に法名ほうみょう俗名ぞくみょう、死亡年月日、年齢ねんれいを記して、祭壇さいだんに安置します。これは、回向えこうのためと、参列者さんれつしゃに法名などを披露ひろうするためのならわしといえます。

したがって位牌そのものを、礼拝らいはい対象たいしょうにしたり、死者の霊が宿やどっているなどと考え、それに執着しゅうちゃくするのは誤りです。

位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌をおがんだからといって、死者の霊をなぐさめることができるというものではありません。

世間せけんの多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔きんぱくなどの位牌にあらため、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関そうかん関係かんけいもないことなのです。

真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済きゅうさい成仏じょうぶつさせうる力と働きと法門のそなわった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身ぼんしん仏身ぶっしんへ、生死しょうじ涅槃ねはんへと導くことにきるのです。

日蓮大聖人は、

「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益りしょうとくやく有るべき時なり。さればの題目には余事よじを交へば僻事ひがごとなるべし。の妙法のだいまんを身にたもち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御講聞書・御書1818㌻)

とも、また、

ただ南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・御書1293㌻)

と説かれています。

父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提いちえんぶだい第一の本門の本尊を持ち、その御本尊に整足せいそくする成仏の種子しゅしたる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。

したがって位牌も塔婆とうばも、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界じっかい互具ごぐ一念三千いちねんさんぜんの法門の原理がそなわるのです。梵字ぼんじ新寂しんじゃくくうなどの字がきざまれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方しかたではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過ざいかを重ねる結果となってしまうのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載