6-11 日蓮正宗の信仰には、なぜ利益があるのか

天台てんだい大師だいしは、利益りやく功徳くどくについて、

厳密げんみつにいえば、功徳とはみずかむものであり、利益とは他からあたえられるものというちがいはあるが、仏道ぶつどう修行しゅぎょうによる得益とくやくすがたからいえば、その意義は同一である」(法華玄義巻六取意)

といわれています。

したがって、ふつうは利益のことを功徳といってもさしつかえありません。

妙楽みょうらく大師だいし弘決ぐけつには、

仮使たとい発心ほっしん真実しんじつならざる者も正境しょうきょうえんすれば功徳くどくなお多し」

といわれるように、日蓮大聖人があらわされた一閻いちえんだい総与そうよだい本尊ほんぞんには、仏様が一切いっさい衆生しゅじょうすく仏力ぶつりきと、あらゆるわざわいをのぞいて人々を幸福にみちび法力ほうりき厳然げんぜんおさめられておりますので、これにえんする者は大きな功徳を積むことができるのです。

御本尊をはいしますとひだりおんかたに「有供うく養者ようしゃふく十号じゅうごう」としたためられています。

十号じゅうごうとは、仏様の尊称そんしょうで、如来にょらい応供おうぐしょうへん明行みょうぎょうそく善逝ぜんぜい世間解せけんげ無上士むじょうし調ちょうじょう天人てんにん仏世尊ぶつせそんのことですが、これについて大聖人は、

末代まつだいの法華経の行者を供養くようせん功徳は、三業さんごう相応そうおうの信心にて、一劫いっこうあいだ生身しょうしんの仏を供養し奉るには、百千万ひゃくせんまんのくばいすぐべしと説き給ひてそうろう。これを妙楽みょうらく大師だいし福過ふくか十号じゅうごうとはかれて候なり」(法蓮抄・御書813㌻)

おおせられ、法華経の行者日蓮大聖人の当体とうたいである御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典ぶってんに説き示されている生身しょうしんの仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量の智慧ちえ福徳ふくとくは仏の十号にもまさると説かれています。

したがって仏力ぶつりき法力ほうりきの功徳は、他から安易あんいあたえられるものではなく、御本尊に対する信力しんりき行力ぎょうりきみがくことによって、はじめて積むことができるのです。

ふつう〝ご利益〟というと、お金がもうかったり、病気がなおったり、願いごとがかなうなどの目前もくぜん現証げんしょうだけを考えがちです。このような今世こんぜの利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去かこ現在げんざい未来みらい三世さんぜにわたって永遠えいえん不滅ふめつなるがゆえに過去世かこせ罪障ざいしょう消滅しょうめつし、今世のみならず未来みらい永劫えいごうにわたって清浄しょうじょうな幸福境界きょうがい確立かくりつすることが真実の利益であると教えられています。

日蓮大聖人は功徳について、

「功徳とは六根ろっこん清浄しょうじょう果報かほうなり。(中略)あくめっするをひ、ぜんしょうずるをとくと云ふなり。功徳おおきなるさいわいとは即身そくしん成仏じょうぶつなり」(御義口伝・御書1775㌻)

と仰せです。六根とは、眼根げんこん耳根にこん鼻根びこん舌根ぜっこん身根しんこん意根いこんの生命の識別しきべつ作用さよう器官きかんをいい、それが清浄しょうじょうになるとは、六根にそなわる煩悩ぼんのうのけがれがはらい落とされてきよらかになり、ものごとを正しく判断はんだんできる英知えいちが生まれることなのです。

したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩ぼんのうはそのまま仏果ぶっか証得しょうとくする智慧となり、生命に内在ないざいする仏性ぶっしょうはいきいきと発動はつどうし、迷いの人生は希望にちた楽しい人生に転換てんかんされていくのです。

これを即身成仏の境界きょうがいというのです。

正しい信仰を知らない人は、この六根がみょうの煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかないあやまちをおかすことが多いのです。

このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本からじょうし、英知えいちと福徳をそなえた幸福な人生をきずくものですが、その利益は個個ここの人間にとどまるものではありません。

大聖人はしょう不二ふにという法門ほうもんを説かれています。とは、私たちが生活するこの国土をいい、しょうとは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのままじょう国土こくど世界せかい反映はんえいするという〝不二〟の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害さいがい戦乱せんらん飢餓きが根本的こんぽんてきに解決し、悠久ゆうきゅうの平和社会を実現じつげんするためには、正報しょうほうである人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。

私たちが三世さんぜにわたって即身成仏の境界をきずき、しかも国土を平和社会に変える方途ほうとは、日蓮正宗総本山大石寺に厳護げんごされる本門ほんもん戒壇かいだんの大御本尊を純真じゅんしんに拝し、弘宣ぐせんしていく以外にはないのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載