5-10 宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまいではないか

「科学的」とはいったいなんでしょう。ふつう科学とは、物事や現象げんしょうについて、その性質・変化・他との関係などを実験を通して、体系化たいけいかし、応用おうようを考える学問のことです。

この科学の基本となる道理が因果律いんがりつです。すなわち一定の物事(いん)が一定の条件じょうけんと作用(えん)によって、一定の結果を生ずること、たとえば酸素さんそ水素すいそを一定条件のもとで化合かごうすれば、だれがいつどこでおこなっても、かならず水を生ずるようなものです。この普遍的ふへんてきな因果律が「科学的」という言葉の意味だと思います。

さてこの原則をもって現在の多様化たようかした宗団・宗派を見ると、質問のような〝あいまい〟な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。なかには教祖きょうそ発狂はっきょう状態になったことを、神が宿やどったと称して支離しり滅裂めつれつな言葉を神のおげとしてあがめるものや、祭壇さいだんに供えた水は霊験れいけんがあるといって病状を無視むしして多量の水を飲ませるもの、あるいはけむりれるだけでびょう息災そくさいになると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や迷信めいしんとしかいいようのない宗教も数多くあります。

このようないかがわしい宗教を別として、文証もんしょう理証りしょう現証げんしょうに照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的なまなこをもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識ではかれないからという理由で、現実の事象じしょう否定ひていしたり、〝非科学的〟とめつけることは、それこそ〝非科学的〟な態度というべきでしょう。

近代の科学は物質文明の中で発達し、多大の貢献こうけんをしてきましたが、精神文明ことに人間の心にかんしてはまったく手つかずの状態じょうたいです。

にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界ほうかいの真理を深く観達かんたつして説かれた仏法を、人智じんち集積しゅうせきともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは無理むりな話です。

それはあたかも、しゃくとりむしが自分の歩幅ほはば歩数ほすうで、空を飛ぶ鳥の飛距離ひきょりはかろうとしているのにています。

もしどうしても、日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証ろんしょうせよというのならば、釈尊の予証よしょうのとおり現実のじょくに出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難にいながら一切いっさい衆生しゅじょう成仏じょうぶつせしめんと大慈悲をもって、大御本尊をけん建立こんりゅうされた事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜かんきと希望にちた人生を歩んでいるという実証こそ、〝科学的〟現実そのものではありませんか。

将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生そせいさせ、豊かな生命力を涌現ゆげんさせる仏法が、七百年間富士大石寺たいせきじ厳然げんぜんと伝えられ、未来みらい永劫えいごうにわたって全世界の民衆を救済きゅうさい得道とくどうせんと威光いこうをもって照らされている事実を知るべきでありましょう。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載