1-9 信仰は老人がするものではないのか

「信仰は年寄としよりがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解むりかいと老人に対する偏見へんけんひそんでいるように思われます。

正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものをげてみますと、

  1. 正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
  2. 日々の信仰修行によって身心ともに健全けんぜんな人間として鍛錬たんれんされる。
  3. 精進心しょうじんしんすなわちこつこつとたゆまぬ努力をみ重ねる心がつちかわれる。
  4. 敬虔けいけんな心・感謝の心・思いやりの心がやしなわれる。
  5. 日常生活が信仰の功徳力くどくりきによって仏天ぶってん加護かごされる。

などがあります。

このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁むえんであるというのはまったくまとはずれな暴論ぼうろんというべきです。

むしろ、「鉄はあついうちにきたえよ」という言葉どおりに、人生の基礎きそとなり土台どだいとなる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練しゅうれんむべきなのです。

ビルを建てる場合でも地中ちちゅう深く打ち込まれた盤石ばんじゃくな基礎があれば、その上に立派りっぱな高層建築を建てても微動びどうだもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得よくとくや表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。

また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮ふりょ災難さいなんにまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生をだいなしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々ひび守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件ようけんといえましょう。

たしかに低級思想や迷信めいしんに走る宗教、あるいは形骸化けいがいかした既成きせい宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避きひしているというのが現実です。

しかし真実の生きた宗教は、老若男女ろうにゃくなんにょ、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにもくずれない安穏あんのんにして自由な境涯きょうがいを確立させるところに、その目的があるのです。

また、道をこころざすことに早いということはありません。青年・壮年そうねん熟年じゅくねんわず正法に帰依きえすることは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木なえぎ大木たいぼく名木めいぼくに成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、きょういしずえとなるのです。

現在、日蓮正宗には、多くの青年が自己じこの確立と社会平和のために情熱をもって信心修行に励んでいます。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載