1-8 自分は忙しくて時間がないので信仰ができない

現代はたしかにいそがしい時代です。いまや国民のすべてが時間とのたたかいにあけくれているといっても過言かごんではありません。

駅の売店で牛乳とパンを流し込んで会社にいそぐサラリーマンや、何秒とちがわない先を急ぎ、無理な追い越しのために死亡事故を引き起こしている車社会の様相ようそうなどは、まさに時間地獄じごくとでもいいたいほどです。

また、家事・育児いくじのほかにパートで働く主婦、学校が終わるや学習じゅくに走る子供たち、定年後も生活のために働く老人など、あらゆる人々が働きバチのように目まぐるしく、時間に追われるように生活しているのが現実です。

これは、だれもが現代社会の中でよりよい生活を求め、社会のスピードにおくれまいとする心の表れといえましょう。

しかし、どんなに忙しい人でもまったく睡眠すいみんをとらないわけではないでしょうし、食事の時間や新聞を読む時間ぐらいはあるはずです。

たいていの人は「忙しい忙しい」といいながら、友だちとのおしゃべりや晩酌ばんしゃく、テレビなどで一時間や二時間をついやしているのではないでしょうか。

これは本当に時間がないのではなく、心にゆとりがないということであり、忙しいと感ずるかどうかは、その人の身体からだと心の許容きょようりょうの問題であるといえましょう。

ですから「時間はできるものではない、時間はみずから作るものだ」という言葉も、自分自身の心にゆとりを持つことを教えているのです。

もし、身心の許容量が小さく、通常の生活でせいいっぱいの人や、仕事と家庭以外には手がまわらないという人がいたならば、このような人こそ仏法によって色心しきしん(肉体と精神)両面を錬磨れんまし、力強い生命力と豊かな人間性をとりもどす必要があります。

また、もし本当に寝る時間もないほど忙しい人がいるならば、その人は自分の苦労や努力がはたして正しい方向にすすんでいるのかどうかを考えるべきです。

せっかくこなにして努力しているのに、正しい人生設計も明確な目的も持たないならば、「骨折ほねおぞんのくたびれもうけ」になってしまいます。

人間としてもっとも大切な大目的を教え、人生のもっとも正しいあり方、考え方を説き示したものが、仏法です。この仏法を信じ行ずることによって、自分の生命の中に英知えいちと力がそなわってくるのです。

たとえていえば、間違まちがいのない標識ひょうしきと、どんな悪路あくろや坂道でも乗りこえる車があって、はじめて目的地に到達とうたつするように、正しい教えと正しい信仰によって、人生の苦労や努力がみのるのです。

ですから、忙しい人ほど人生の根本の指針ししんとして正しい信仰が必要であることを知るべきです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載