1-7 信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない

たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。

日蓮正宗でいうところの折伏しゃくぶくとは、人に信仰を強要することではなく、日蓮大聖人の教えの尊とうとさと、自みずから体得たいとくした信心の感動を、一人でも多くの人に語り伝え、喜びを分わかち与えたいと思う慈悲じひ心しんの発露はつろなのです。

たとえば、病気の子供が苦にがいからといって薬を飲まない時、親はそのままにしておくでしょうか。無理をしてでもその子に薬を飲ませるのではないでしょうか。

折伏とは、まさにこれと同じです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は、大良薬りょうやくに譬たとえられ、人間が生きてゆくための真理が説かれているからです。

真実の仏法を知らない人は人生の真の目的を知ることもなく、正法の功徳を受けることもできず、無味むみ乾燥かんそうの一生を虚むなしく送ることになります。

そのようなことのないよう、真実の仏法を一人でも多くの人に伝えたいと思う慈悲の心が、折伏という行動として現あらわれてくるのです。

また、親なればこそ、我が子にやっていいことと、やってはいけないこととを厳きびしくしつけるように、折伏とは正邪のけじめを正しい仏の教導きょうどうにしたがって諭さとし示すことでもあります。

ですから、折伏は人に信仰を強要することではなく、人生の真理を伝え、喜びを共ともに分かちあいたいという大きな慈悲じひ行ぎょうなのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載