1-14 信仰をしなくても立派な人がいるではないか

まず「立派りっぱな人」とはどういう人をすのでしょうか。

一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉めいよのある人、ざいをなした人、学識がくしき豊かな人、福祉ふくし活動や救済事業に貢献こうけんする人、社会的な悪とたたかう人などが挙げられます。

さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながらすごしている人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。

こうしてみると、〝立派な人〟といっても一定のじゅんがあるわけではなく、他人をひょうする時に主観的見地けんちから用いる漠然ばくぜんとした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。

では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。

結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高きゅうきょく境涯きょうがい到達とうたつすることを大目的として修行精進しょうじんすることであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨れんまし、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと〝立派な人間〟がつちかわれていくのです。日蓮大聖人は、

「さればたもたるゝ法だに第一ならば、持つ人したがって第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298㌻)

おおせられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。

ですから正しい信仰をたずに、たん眼前がんぜんの名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意ぎょいかなう人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。

大聖人は、賢人けんじんについて、

「賢人は八風はっぷうと申して八つのかぜ風邪にをかされぬを賢人と申すなり。うるおいおとろえやぶれほまれたたえそしりくるしみたのしみなり」(四条金吾殿御返事・御書1117㌻)

おおせです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽えつらく(楽)などによって喜んだり、落胆らくたんしたりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風におかされない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰をたいして仏道精進をこころざす以外にないと示唆しさされています。

この八風におかされない賢人こそ〝立派な人〟というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底おうていから浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。

大聖人は、

「地獄にちてほのおにむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事をさしおいて三宝さんぼうを供養し、だいたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、みょうもんみょうの風はげしく、仏道修行のともしびは消えやすし」(新池御書・御書1457㌻)

いましめられています。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載