1-13 利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない

人間の幸福と不幸を、線を引いて区分くぶんすることはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。

心頭滅却しんとうめっきゃくすれば火もまたすずし」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念むねん無想むそうの境地)できるか、どの程度の火熱かねつを涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢がまんできても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛げきつうを感ずれば心も落着おちつかなくなるのは当然です。

これらの事実から見ても、現実の結果や物事ものごとひょうは人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。

これらの原理を仏法では「色心しきしん不二ふに」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいにはなれることなく一体であると説いています。

この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。

日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受しんじゅする者について、

と「身はこれ安全にして、心は是禅定ぜんじょうならん」(立正安国論・御書250㌻)

おおせられ、心に禅定をるばかりでなく、身体も安穏あんのんになると説かれています。

また、正法にそむく者について、経文を引用して、

ひと仏教をやぶらばまたこう無く、六親ろくしん不和ふわにして天神もたすけず、疾疫しつえきあっひびたりて侵害しんがいし、さいしゅし、れん縦横じゅうおうし、死して地獄じごく餓鬼がき畜生ちくしょうに入らん。若しでて人とらばひょう果報かほうならん」(立正安国論・御書249㌻)と説かれています。この文の意味は、

〝正法を信ぜず、信仰をやぶる者は福徳ふくとくきて、孝養心のある子供にめぐまれず、親子・兄弟・親戚しんせきが仲たがいをしていがみあう。天候不順で作物さくもつが実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。奇怪きかいな事件やわざわいが次々に起こり、死後は苦しみの地獄、飢渇けかちの餓鬼、互いに殺し合う畜生などの世界に落ちる。そののちもし人間に再び生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷どれいとなって酷使こくしされるであろう〟

というのです。

これらの教えは因果いんがの道理、すなわち善因ぜんいんを積めば善果ぜんか悪因あくいんには悪果あっかを生じるという当然の姿をしるしたものであり、正法を信受する者には大利益だいりやくが、不信ふしん毀謗きぼうの者には厳然げんぜんとしたばちが、身心両面に現れることを説いているのです。

真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗ぼんぞくの私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念よねんなく信受しんじゅし、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載