1-11 宗教は狂信、盲信のすすめではないか

ここでいう「狂信きょうしん」とは、理性りせいを失いわれを忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信もうしん」とは、ひとつの信仰に埋没まいぼつし、わけもわからずむやみに信ずることです。

この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。

まずはじめに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。たとえば霊媒信仰れいばいしんこう修験道しゅげんどう、あるいはおどる宗教などは忘我ぼうがきょういたることが救いであり、理想であると説いています。また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着しゅうちゃくするあまり、教義の正邪ではなく、暴力やテロにうったえる場合もあり、これも狂信のひとつといえましょう。

さらに念仏ねんぶつしゅうなどは「他の教典はすべててよ、じよ、さしおけ、なげうて」と、の教典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字ふりゅうもんじ只管しかん打坐たざしょうして文字による教義理解を否定し、他宗の善悪ぜんあくを知ることさえ、きらいます。

また、密教みっきょうやキリスト教のなかには、社会との交渉こうしょうって、山奥やまおく閉鎖へいさ集団の中で生きることをじょうの目的とするものもあります。

このように、他の宗派や社会と隔絶かくぜつすることを説く宗教を信ずるならば、他の宗教と比較することもできず、独善どくぜん的な信仰となります。

日蓮大聖人は、

迷妄めいもうの法にちゃくするが故に本心を失ふなり」(御講聞書・御書1858㌻)

と説かれ、誤った教えによって本心たる理性がうしなわれ、狂信になると教えています。

また、

づ国土をやすんじて現当げんとうを祈らんとほっせば、すみやかに情慮じょうりょめぐらしいそいで対治たいじを加へよ」(立正安国論・御書248㌻)

おおせられ、社会の平和を実現させるためには、正法と邪法とをよくよく糾明きゅうめいして対応たいおうきゅうしなければならないと説かれています。

第二には、信仰修行の上での狂信・盲信についていえば、日蓮正宗の信仰修行は理性りせいうしなう狂信でもなく、わけもなく信ずる盲信でもありません。

大聖人は、

「行学の二道をはげみ候べし。行学へなば仏法はあるべからず」(諸法実相抄・御書668㌻)

と、修行とともに教学、すなわち教義の研鑽けんさんが大切であると説かれています。

また、

すいとは不信なり、かくとは信なり。今日蓮たぐい南無妙法蓮華経と唱へ奉る時みょうの酒めたり」(御義口伝・御書1747㌻)

と仰せられ、真実の正法を信じ唱題する時、みょうという迷いのきりが晴れて真理に目覚めざめるのであると教示されています。

第三には、現実の例証れいしょうをもっていえば、大聖人は、

「仏法を習ふ身には、必ず四恩しおんを報ずべきにそうろうか。」(四恩抄・御書267㌻)

と、信仰者しんこうしゃは人間の道として父母・衆生しゅじょう・国土、そして三宝さんぼうの四つの大恩を常に感じ、むくいるように教えられています。また、しょくでのこころとして、

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・御書1220㌻)

さとされています。このように常識をもち、社会人としてのつとめにはげむことが信仰者しんこうしゃの道であると教えています。

日蓮大聖人の願いとするところは、正しい仏法によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境涯を築くことであり、日蓮正宗を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚めざめさせるために正邪を説き、みずからの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。

しかも正法を信ずるならば仏力ぶつりき法力ほうりきによって、おのずと円満な人格と福徳ふくとくそなわり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。

もしあなたが、信仰者の真剣な礼拝らいはい唱題の姿をとらえて、それを狂信だ盲信だと非難ひなんするならばそれは妄断もうだんであり、あやまりです。なぜならばそれはあたかも、職人しょくにん一心不乱いっしんふらんに仕事に打ち込み、運動会で子供が一所懸命いっしょけんめいに走っているところだけをとらえて、「気違いだ」「狂っている」と、はやしたてているようなものだからです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載