1-10 信仰をしていても悪い人がいるのではないか

信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。

「悪い人」といっても、悪い考えにまった人、悪いくせを持った人、自分で気付かずに悪業あくごうおかす人などさまざまです。

釈尊は、現代の世相を「じょく悪世あくせ」と予言よげんしました。五濁とは①劫濁こうじょく(社会・環境に悪い現象が起きる)、②煩悩ぼんのうじょくいかりやむさぼりなどの悪心にとらわれた本能のまよい)、③衆生濁しゅじょうじょく(人間そのもののにごり)、④見濁けんじょく(思想や考えのみだれ)、⑤命濁みょうじょく(生命自体のにごり、人命軽視けいしなど)をいいます。

たしかに現代社会は科学技術の発展とは逆に、人間性は歪曲わいきょくされ、貧困ひんこんになっていますし、社会全体の混迷こんめい汚染おせんはますます深刻しんこくになっています。まさしく釈尊の予言どおりの世相になっています。

社会も時代も、そして個々の人間まで汚染されつつある現代は、悪で充満しているといっても過言かごんではありません。そのような中で、健全な人生を築くために発心ほっしんして信仰の道に入っても、始めのうちは過去からの宿習しゅくじゅう因縁いんねんによって、また縁にふれて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。

また世間でつみおかした人が、最後の更正こうせいのよりどころとして信仰をたもち、努力することも宗教の世界なればこそ当然であります。

このような場合でも、正しい宗教によって信仰を実践じっせんしていくうちに、悪いさがち切り、煩悩を浄化じょうかし、六根ろっこん清浄しょうじょうになっていくのです。日蓮大聖人は信心の功徳くどくについて、

「功徳とは六根清浄ろっこんしょうじょう果報かほうなり。所詮しょせんいま日蓮たぐい南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御義口伝・御書1775㌻)

と仰せです、すなわち正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根(げんぜつしん)のすべてが清浄な働きになると教えているのです。

信仰の正当性を知るために大切なことは、それを信ずる人の姿を見て判断するのではなく、信仰の対象たいしょうである本尊や教義の正邪をもってその価値かちを決しなければならないのです。釈尊は、

「法にりて人に依らざれ、に依りてに依らざれ」涅槃経ねはんぎょう

と説いています。

信仰をしている人を部分的な表面や風評ふうひょうをもって批判することはだれにでもできるでしょう。しかし批判者ひはんしゃにはそれ以上にるものはなにもないのです。むしろ、正法の信者を誹謗ひぼうするという大きな罪を作っているかもしれません。

一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分とたたかいながら仏道に精進しょうじんしている人は、当初とうしょはずかしい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に到達し、真実の幸福境涯を築き、周囲の信頼しんらいと尊敬を集めることができるのです。

もし万が一にも、正しい信仰を持ちながら平気で悪事をなすならば、その人は仏法にきずをつける罪によって仏罰ぶつばちを受けるでしょう。しかしそれもまた、その人を善導ぜんどうするための仏の慈悲じひのあらわれであり、いかなる人も必ず正しい人生をあゆむようになるのです。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載