2-1 神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗なにしゅうでもよいのではないか
宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。
では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
質問のように、神仏を信ずる心が尊い、神仏を礼拝する姿が美しい、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。
私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は〝信ずること〟であり、〝礼拝すること〟なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。
いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間も、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。
せっかく信仰心に目覚めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依すべきでありましょう。
出典:「正しい信仰と宗教」から転載