6-1 宗教に正教と邪教があることがわからない

なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問うとき、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いをかなえてほしいといい、またある人は先祖の冥福めいふくを祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。

現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格ごうかく祈願きがんのための神社をはじめ、水子みずご供養くよう専門せんもんの寺院とか、虫封むしふうじの神社があるかと思えば〝とげき地蔵〟なるものまで、多種たしゅ多様たようの宗教があります。

また信仰する対象たいしょうも、同じキリスト教でもじゅう字架じかおがむものや聖書せいしょ・マリア像・キリスト像をおがむものなどさまざまですし、仏教でも釈尊しゃくそんぞうを拝むものや、大日如来だいにちにょらい阿弥陀あみだ如来にょらい薬師やくし如来にょらいなどの仏や、観音かんのん弥勒みろくなどの菩薩ぼさつ、あるいは大黒天だいこくてん弁財天べんざいてんなどの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐たきに分かれています。

もし宗教がたんに気休めや精神せいしん修養しゅうようのための手段しゅだんならば、それはちょうど音楽のきな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人のこのみによればよいということになるかもしれません。

でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁むえんのものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪ぜんあく真偽しんぎ正邪せいじゃによって大きな影響えいきょうを受けることになり、それが人生の指針ししんにかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。

たとえば、進学や就職しゅうしょく、結婚などはだれでも慎重しんちょう選択せんたくするでしょうし、日常生活でも乗物のりものや食べ物あるいは医薬品いやくひんなどは、より信用できるものを選ぶものです。その選択せんたくじゅんとして、自分の経験けいけんや、道理どうり適否てきひ実験じっけんの結果・しょう有無うむ・他者のひょうなどを考慮こうりょしたうえで、できる限り、よい価値かちを生ずるもの、すなわち満足まんぞくできるものを選ぶのではないでしょうか。

これと同じように、宗教もそれぞれ本尊がことなり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、

小乗経しょうじょうきょう大乗経だいじょうきょう並びに法華経は、文字はありとも衆生しゅじょうやまいの薬とはなるべからず。所謂いわゆる病は重し薬はあさし。其の時上行じょうぎょう菩薩ぼさつ出現しゅつげんして妙法蓮華経の五字を一閻浮提いちえんぶだい一切いっさい衆生しゅじょうにさづくべし」

(高橋入道殿御返事・御書887㌻)

おおせのように、三毒さんどく強盛ごうじょう末法まっぽうの衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬だいりょうやくを与えるべきことをきょうされています。

釈尊も法華経において、

唯一乗ただいちじょうほうのみ有り、二無になまたさんし」

(方便品第二・開結110㌻)

と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことをかされています。

いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。

このように、宗教には正邪せいじゃの区別があることを知らなければなりません。

出典:「正しい信仰と宗教」から転載